2016.05.03 執筆
2018.03.03 公開

未来への約束

 風にうねる草原で、スノウはセラの涙のクリスタルを通してコクーンを見上げていた。以前は、なんの疑いもなく、当たり前のように過ごしていた世界だ。ルシになってから、あまりにも遠いところに来てしまったような気がする。なあ、セラ。語りかけるようにして、セラと共に見上げていたスノウに近づく一人分の足音があった。
「セラは?」
 ライトニングだ。スノウの背後からゆっくりと近づいた彼女もまた、コクーンを見上げていた。
「泣かせたまんまだ」
 涙のクリスタル。それは彼女の悲しみから生まれたものなのか。はたまた。……どちらにせよ、今のスノウとライトニングには確かめる術はない。
 風に乗ってきた巨大な綿毛を、ライトニングがそっと手のひらに乗せる。風が吹けば吹き飛ばされてしまう綿毛は、子孫を残すという使命のために自由気ままに空を旅する。
 私たちとは大きな違いだ。世界を壊すという使命を課せられ、それから逃げてきた自分たちとはまるで違う。
 手のひらの綿毛は、風と共に流されて散っていた。やがてその種子は、巡り得た地で根を張り、また次の子孫を残していくのだろう。
 宙に舞う綿毛は、まるでここだけ別世界のようだった。次々に飛んでゆくその姿を目で追いながら、スノウが静かに呟く。
「どっちも遠いな……」
 それはセラとコクーンのことを指しているのだろう。掴みたい未来のための救いの道のり。その険しさを真に理解したスノウの言葉は、やけにすとんとライトニングの心に落ちてきた。
「セラが話したいってさ」
 スノウがライトニングにクリスタルを手渡す。それを受け取って、ライトニングもまた、彼がそうしていたように、クリスタルを通して、コクーンを見上げてみた。
 透き通ったセラのクリスタルの中は、水の波紋のようなものが浮き出ていた。それを丁度コクーンの真下に当たるようにして透かして見る。
 ――こんな光景を見る日がくるなんて、コクーンにいた頃は思いもしなかったな、セラ。そっと語りかければ、「そうだね、お姉ちゃん」と穏やかに微笑むセラの横顔が浮かんだような気がした。
「説教は抜き。やさしく、な?」
 綿毛を掴んで、スノウがにかりと笑う。ライトニングが触れて簡単に崩れてしまった綿毛。しかしこの豪快な男は、意外にも繊細な動きで見事にそれを掴んでみせたのだった。
 ……本当に、遠いところまで来た。
 時間にしてみればけして長くはないはずなのに、思えば随分と歩いてきたものだ。
 結婚を許して欲しい。ライトニングの二十一歳の誕生日に、プレゼントと一緒に宣言された言葉が、今更のように甦る。
 馬鹿馬鹿しい話だと思った。セラはまだ十八歳で学生だ。それが、ちょっと地元で幅を効かせている自衛団ノラのボスと結婚だ?
 元々ライトニングは、ノラのことがあまり好きではなかった。アモダ曹長はけして悪くは言わなかったが、軍の存在などお構いなしに自分勝手な思想を振りまく、単なる若者たちのバカ騒ぎだろうと思っていたのだ。
 そんな相手を引き連れて、結婚。おまけに、左腕には見慣れぬ刻印を付けている。――ルシ? そんな、バカな。あんなものはおとぎ噺だ。
 セラの必死の言葉に耳を貸さず、突き放した。結果としてセラは異跡に囚われ、クリスタルとなった。
 ……すべてを知った今なら、スノウの言葉が全部本気のものだったということが理解できる。
 セラがルシになったということ。優しいあの子のことだ。周囲に迷惑をかけることを真っ先に恐れただろう。そしてこのバカな男は、きっと……いや間違いなく、そんなセラを追いかけ、支えたのだろう。いつ別れがきてもおかしくないというのに、その時間を一刻も無駄にさせまいと選んだ結果の、結婚という選択肢だった。そして、あの頃のライトニングは、それを理解することができなかった。――今なら、きっと許してやれただろうに。ブレイズエッジを握りしめ、ライトニングはスノウが手にした綿毛を斬った。
 咄嗟にスノウは体を捩じって斬撃を避けた。草原に尻もちをついて倒れ込んだスノウを見下ろして、ライトニングは告げる。
「帰ったら、私をどうするつもりだ」
「……義姉さん?」
「セラがそう言っている」
 展開したブレイズエッジを折りたたんで、ライトニングはクリスタルを持ち上げてみせた。ライトニングなりの乱暴な冗談であったことをスノウは理解したのだろう。驚きの表情は、やがて安堵へと変わり、彼は呆れたように息を吐いた。
「おどかすなって」
「結婚式、だろ? しっかり受け止めてやれ」
 セラのクリスタルをスノウへと投げ渡す。ライトニングが初めて口にした許しの言葉だった。クリスタルをしっかりと捕まえてみせたスノウが、口を開く。
「涙はこいつで最後。一生、泣かさない」
 見せつける様に、涙のクリスタルをライトニングに向けてみせる。そんなスノウを前に、掠れた声でライトニングは返事した。
「当たり前だ」
 そのまま、スノウに背中を向けて歩いていく。
「また会えるよな……?」
 いつだって自信満々で無鉄砲なスノウが零した気弱な声だった。許しは得た。一緒になれる未来に一歩近づいた。けれど、そこへ至るための道のりは、まだまだずっと険しい。それは、ライトニングでさえも重々理解していることだった。
「違うだろ」
 そんな、スノウの背中を押すようにして拳を押し当てて、ライトニングは告げる。
「前だけ見てろ」
 それは、彼女の口癖だった。挫けそうな時。どうしようもなく、辛くてたまらない時。後ろを振り返らず、まっすぐに走ろうとするライトニングの願いでもあった。
 スノウが掠れた声でため息を零す。背中を後押しされて、彼はどう返事をしたらいいのか迷っているようだった。
「『必ず会える』だろ」
 祈るように、静かに告げる。
「夢を見せたのはおまえだ……」
 まるで振り返らないでくれ、そう言っているかのようだ。どこか頼りないライトニングの口調に、スノウが躊躇うようにライトニングを呼ぶ。彼女からの返事はない。
 ライトニングは、ただ声もなく、はらはらと熱い涙を零していた。それは、彼女がこの果てのない旅の中で見せた、初めての涙だった。
 ――セラ、セラ。今なら、大切なおまえのことを、スノウに素直に託すことが出来る。バカで、無鉄砲で、全然人の話を聞かない男だけれど。どうしようもないやつだけど。
 クリスタルとなったおまえのことを、けして見捨てることをしなかった。誰よりも、おまえのことを大切にしてやれる男だった。そんなスノウだからこそ――おまえを託すことができる。
 だから、セラ。どうかこの旅の果てで、おまえの笑顔を見せておくれ。
「全部終わらせて、一緒に迎えに行こうな」
 ライトニングの想いが、鈍いスノウに伝わったかどうかは分からない。けれどスノウは、振り返ることなくまっすぐにコクーンを見上げて、そう言った。
 そんなスノウの背中に、ライトニングが静かに歩み寄る。バカなスノウの言葉に、一体どれほど救われてきたのだろう。涙で濡れた頬を寄せると、スノウは何も言わずに、ただ背中を貸してくれた。その広くて温かい背中に、遠い昔に手放した温もりを思い出してしまって。ライトニングはただ静かに、声もなくセラを想って泣いた。

   * * *

「――ライトさん」
 本当は、きっと誰にも見せる気なんてなかったのだろう。しかし、ホープはたまたまそれを見てしまった。彼女が……ライトニングが、スノウの背中に顔を寄せて泣いているのを。
 何を喋っていたのかは、聞こえなかった。二人の言葉はとても小さくて、簡単に風に掻き消されてしまったから。
 だけど、二人の雰囲気が険悪なものでないことは理解した。なにより、あんな弱々しくて頼りないライトニングの姿を初めて見た。
 スノウはきっと、ライトニングの弱さを受け止めたことだろう。ナイフを手にしたホープに、背中を向けてしまえることができる男だ。彼が、誰よりも懐が深いということを、ホープはよく理解している。
 だから、彼のことを好ましく思っていない素振りを見せていたはずのライトニングが、剥き出しの心を曝け出したのも理解できる。理解は、できるのだ。
 ずっと強い人だと思っていた。でも、本当は強く見せるために精一杯の人だった。そんなことは、パルムポルムで理解したはずだった。――分かっていたつもりになっていただけだったのだ。
 僕も、守れたらなって。
 守ることのできる背中は、僕にはあるのだろうか。スノウの逞しい背中を見て、思う。あの背中に守られた。例えば魔物。例えば軍人たち。例えば、復讐に縋らなければ生きることすらままならなかった自分自身。
 ……全然足りないと思う。弱い彼女を丸ごと守ってあげれるような、そんな背中には。
「早く、大人になりたいな」
 ただ、大人になるだけじゃダメだってことは分かってる。本当に大切な時、何もかもを投げ出してでも真っ先に手を伸ばすことが出来るような。……例えば、スノウや父さんみたいな。そういう大人になれたらと思う。大人になって、あの、いじっぱりな背中を守ってあげられたらと思う。
「強くならなくちゃ」
 力だけじゃない。本当に強くならなきゃならないのは、きっと、心。
 広大なグラン=パルスの草原に無数に舞う真っ白な綿毛。それを天から見下ろすコクーンと、二人の男女。
 僕は、この悔しい気持ちを一生忘れることなんてないだろう。
 ホープは瞼を閉じて、小さく息を吐く。瞼の向こう側で、綿毛が揺れたような気がした。
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