2018.06.08 執筆
2018.06.08 公開

微睡

 遠くから名前を呼ばれたような気がして、僕は瞼を持ち上げた。
「いたっ」
 鈍い痛みが走る。思わず頭を押さえれば、覚えのない感触がある。……布? 一体どうして、そんなものが頭に巻きつけられているのだろう。
「目が覚めたか」
 ホープ、と心配そうな声が降ってくる。思わず瞬きをして顔を上げれば、僕を見下ろす格好でライトさんがゆっくりと息を吐いた。
「頭に怪我をしている。触らない方がいい」
 そう口にして、額に触れている僕の手にライトさんは指を添える。されるがままに手を下ろされると、状況が分かっていない僕に言葉を続けてみせた。
「魔物との戦いで負傷したんだ。幸い傷は浅かったが、もう少し休んでいていい」
 ライトさんの言葉で、ようやく僕は意識を失う直前の状況を思い出した。……そうだ。死角からウルフが飛び出してきて、それで。
「すみません……。足でまといになってしまいました」
 ライトさんやスノウのように咄嗟の敵にも対処ができれば良かったのだけれど、如何せん僕は敵に接近されると弱い。ブーメランにせよ、魔法にせよ、ある程度距離がなければ敵に攻撃する術を持ち合わせないからだ。
「いや、違う。おまえはしっかりと役割を果たしていた。敵を仕留め損なった私の落ち度だ」
 すまなかった。そう口にして目を伏せるライトさんに慌てて僕は体を起こす。
「そんな! ……っ」
 次の瞬間、つきりとした痛みが頭に走って僕は頭を抱えて蹲った。
「無理はするな」
 心配げな声音が降ってくる。そうして、ためらいがちに僕の背中に触れてくる指先の感触がある。
「今日はここで休息しよう。もうすぐ暗くなるしな」
「でも……」
「今のお前の仕事はしっかり休むことだ。明日には坑道に入る。そのつもりでいろ」
 言葉だけ並べたなら厳しくとれるかもしれない。だけど、ライトさんの声音は優しかった。
「……はい」
「そんな顔をするな」
 不安そうな顔をしてしまっていたのだろうか。ライトさんが僕の額を、軽く指で触れて苦笑する。
「疲れも溜まっているんだろう。今日くらいは少し甘えろ」
 何か食べれるものを持ってくる。食べて、栄養をつけておけ。そう口にして、ライトさんはすっくと立ち上がってみせる。
 しゃがみこんだ格好から立ち上がったライトさんを、僕は必然的に見上げる形になる。不意に、ミニスカートの下に隠されていた白い足が目に飛び込んできて、思わず息を詰めた。
 ――スパッツを履いている。戦いの時、あれほど派手にミニスカートで動き回るのだ。中身が見えないように、ちゃんと履いているのは知っていた。いや、じっと見てるわけじゃないんだけど! その、見えちゃうし。……目で追っちゃうのは、年頃の男子として……その、しょうがないというか何と言うか……。
 鍛えられた足を覆うスパッツはぴったりとしていて、その形の良さをくっきりと浮かび上がらせている。眩いばかりの白と黒のコントラスト。それでいて、光沢感のある素材が妙に艶かしい。垣間見えたその光景に目を奪われてしまったのも仕方のないことだった。
「……ホープ?」
「あっ、えっと、はい! お、おおお願いします!!」
「変な奴だな」
 慌てすぎてどもってしまった。わたわたと指先を動かして慌てふためく僕を前に、呆れたようにライトさんが目を伏せる。
 そんな風に見下されるとまたドキドキしてしまう。どうしよう、僕、変になってしまったのかもしれない。
「まさか痛みを誤魔化しているとかじゃないだろうな」
 不意にしゃがみこんだライトさんが、僕の真正面にずいとその整った顔を寄せた。透き通ったアイスブルーの瞳が間近に見える。伏せた長いまつげは彼女の艶やかな髪と同じ色をしているということを、その距離になって初めて知った。
「――って、ちょ、ちょっとライトさん!?」
「こら、逃げるな」
「に、逃げてるわけじゃ……」
 ライトさんが迫ってくる。そのあまりの近さに、僕は慌てふためいて――…。
「うわあ!?」
 どすん、と妙な音がして僕は慌てて顔を上げた。
 暗い部屋だ。広く、殺風景な部屋の中にぽつねんと大きなベッドが置いてあって、どうやら僕はそこで眠っていたらしい。まだとっぷりと遅い時間帯なのだろうか。粘るような暗闇の中で、時計の秒針だけが妙に部屋の中に響いている。デジタル主流なこのご時世、古めかしいその音が気に入ってわざわざ買い求めたものだ。この部屋の中で唯一自分が頓着したものだとも言える。
「……夢、か」
 随分と懐かしい夢だった。かつてルシとして旅をした頃のものだ。厳しく、だけど情に脆い、当時十四だった僕の憧れの人が傍にいた、温かくも残酷な夢。
「ライトさん……」
 酷く切なくなってその名を呼べば、ますます胸の奥が苦しくなる。あの旅の後、ライトさんは姿を消して十年と少し。記憶は日に日に薄れていくどころかより鮮明に浮かび上がってきて、それが尚更に胸を締め付ける。
 小さく息を吐いて、僕は薄い掛け布団を捲った。……大変なことになっていた。かつての情景だけでこんなになってしまうのだから、もう僕はとっくの昔に重症なのだろう。
「はあ」
 自然と零れ落ちたため息は、これで二度目。想うだけでも切なくて、夢の中にまで現れるだなんて、いったい僕はどれだけライトさんに執着すれば気がすむのだろう。思春期なんてとっくに通り過ぎたにも関わらず、こんな粗相までする始末だ。まったくもって手に負えない。
「どうせもう寝れないな」
 夢の中で見た白と黒のコントラストはまだしっかりと脳裏に刻み込まれている。触れることすら叶わない彼女を想って悶々とする夜は、これでもう一体何度目になるのだろうか。
 再びため息を吐き出して、僕は五体を投げ出したのだった。
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