2016.03.09 執筆
2018.03.11 公開

恋人未満の関係なのに、うっかりラブホに入ってしまってテンパるライトさんと余裕のホープさんのおはなし。

「結論をつけると、現状、グラン=パルスの魔物に目立った変化はない。現地の拠点の警備と、調査団の警護。組織としての役割は変わらず、と言ったところだ」
 そう言葉を結んで、ライトニングは残りのコーヒーを一気に煽った。
 ――ぬるい。さほど長い時間喋ったつもりはなかったものの、それなりの時間が経過していたらしい。昔の仲間に会うといつもこうだ。内心微苦笑をして、ライトニングは伏せた瞼を持ち上げる。
 視界に映るのは、ライトニングが所属するアカデミー警備団とは別格に予算がかけられた一室だった。人工コクーン・ブーニベルゼ、首都アカデミア。アカデミーの総本部とも呼べる施設の応接室だ。本来ここは、アカデミア内でも高い地位、社会的立場を持った人物、はたまた財界人が訪れる場所と言えるだろう。いくら警備団では異例の出世をしていると言われているライトニングであっても、本来であれば場違いもいいところな一室だ。そもそもAF0年、ファルシ=オーファンが討たれてからというもの、軍の権威は地に落ち、すべての機能はアカデミー内に吸収されるようになった。いわゆる軍人が権力を握っていた時代は五百年も昔のことになるのだ。
 だから、ライトニングがこの場にいるのは、目の前の革張りのソファに腰かけている男と旧知の仲であるといった点がほとんどすべてを占めていると言っていい。
 さらさらとしたプラチナブロンドの髪に温厚な光を湛えたエメラルドグリーンの瞳。整ったその目鼻顔立ちは一見優男風にも見えるその実、頑固なところがあることもライトニングは知っている。とは言っても、ライトニングが彼のことをよく知っていたのは、もう遥か五百年も昔の頃だ。当時と今とでは立場も、在り様も、見た目さえもずいぶんと様変わりした。だから、正確には知っていた、というのが正しい。
「今やアカデミーの最高顧問であるおまえにとってはすでに知っている情報だろうがな」
 思いがけず皮肉めいた口調になってしまうのは、旧知の仲であるはずなのに、どこか知らない人のように見えてしまうからだ。ホープ・エストハイム。これが、目の前に座っている男の名だ。
 ライトニングを前に当のホープは小さくかぶりを振ると、いいえ、と否定してみせた。
「そんなことはありません。直接あなたの口から聞けて良かった」
 そう口にして、ふんわりと目を細めて答えてみせる。何の気なしに紡がれたその言葉に、思わずどきりとして、ライトニングは目を伏せた。
 不意に思い出す。まだ十四だった礼儀正しい少年の姿を。昔からこういう奴だった。だけど、ホープは今の地位を分かっているのだろうか? 賭けてもいい。こいつの言葉に勘違いをしてしまう女性は、絶対、いる。
「だといいがな」
 苦笑を零すライトニングを前に、困ったように彼は眉根を寄せて微笑んだ。その表情が、ライトニングを望郷の念に駆り立てる。
 ホープ・エストハイム最高顧問。かつて、彼は“ルシ”という運命を共にした仲間だった。ライトニング、スノウ、サッズ、ヴァニラ、ファング。そして、ホープ。あの日、偶然ボーダム異跡に居合わせた六名は、ファルシ=アニマによって使命を与えられ、図らずしもコクーンの命運を決める戦いの中に身を投じることになった。
 当時まだ十四歳であったホープは、戦うことも知らぬ非力な子供だった。母と死に別れ、おまけに聖府からは追い立てられ、泣き言を言いながらついてきた子供。しかし、ホープは旅の最中で大きく成長した。過酷な運命を潜り抜けて共に戦い、背中を預けるに足りる仲間へと変わっていった。その成長を見守ることが、ライトニングにとって誇らしかったのは間違いない。
 すべてがおかしくなったのは、旅の終わりに混沌に引きずり込まれ、ライトニングがヴァルハラへとたどり着いてからだった。ヴァルハラには時の流れが存在しない。永遠にも思われたカイアスとの闘いは、セラとノエルの手によって決着がついたが、ライトニングが再び歴史の登場人物となった時には、かつて生きた時代から五百年もの時が流れていた。
 五百年だ。あのルシとなった旅から気の遠くなるような時間が経過していた。コクーンは崩壊し、新たなる箱舟ブーニベルゼが空には浮かぶ。自らの科学力で作り出した大きな船へと乗り込み、人々は人類史においても新たなる夜明けを歩みだした。――だから、もう、ここにはライトニングが慣れ親しんだものは何一つとして残っていない。ボーダムにあった、両親が残してくれた家も。騒がしいノラの連中も。働いていたボーダム治安連帯も。人も、街も、すべてが過去のものになった。
 目の前に座っている男だってそうだ。ライトニングが慣れ親しんだホープ・エストハイムの時は十四歳で止まっている。ヴァルハラから彼が必死になって戦ってきたことは“視て”いたが、それは実感の伴わない、まるで映画のようなものだった。だから、女神の騎士の任を解かれて戻ってきたライトニングの前に心配そうな顔で現れた男が、あのホープだと結びつくのにずいぶんと時間がかかった。
 かつての面影は確かに残っている。だけど、背も、体つきも、顔つきさえもすっかり大人になってしまったホープを見ると、「ライトさん」と親しみを込めて慕ってくれた少年とはどうにも違うように思えて、どういう距離感を取ればいいのか掴みかねるのだ。
(忙しいだろうに、こんな口実を作って会う時間を作ってくれているというのにな)
 今やアカデミーの最高権力の座に座っている男だ。グラン=パルスの魔物の様子などわざわざライトニングが出向いて報告などしなくとも、彼には情報が回っているだろう。それでも、こうして対面する機会を作ってくれるのは、彼にとってライトニングが旧知の仲間であったからに他ならない。
 かつて親しみを込めて接してくれた時と同じように、立場やしがらみを越えすぎない範囲で接しようとしてくれている。それが分かるが故にライトニングもまた、思いあぐねているのだ。今や一介の調査団に過ぎないライトニングがこのような特別扱いを受けていていいのだろうか、と。
「ああ、もうこんな時間ですね」
 不意に調子が変わったホープの言葉に顔を上げれば、ガラス越しの外の景色はすっかり茜色に染まっている。
「すまない、邪魔をしたな」
「お呼びしたのはこちらでしたから。来てくださってありがとうございました。久しぶりにライトさんとお話しできて嬉しかったです」
 そう口にして、ホープは目を細めて笑う。その笑い顔が、不意に記憶の中にあった十四歳のホープの顔と重なった。
「? どうかしましたか」
「いや、何でもない」
 何でもないんだ。そう短く口にして、ライトニングは座り心地のいいソファから立ち上がる。
「ライトさんは今日のお仕事はこれで終わりですか?」
 ショルダーバッグを肩にかけ直し始めたライトニングに、何気なくホープがそう訊ねる。
「ああ。今日は直帰だ」
「なら、僕もご一緒させてもらえませんか」
「おまえと?」
 今、ホープは何と言ったのだろうか。思わず動かしていた手を止めて、ライトニングは目の前に立つ男をしげしげと眺めてみせた。
「女性の夜道は危ないですし」
「それを私に言うか?」
 ライトニングの腕っぷしの強さは、ホープも知っての通りのはずだ。むしろホープの方が立場的にも気を使わなければならないはず。呆れて半眼になるライトニングを前に、ホープは表情の読めない顔をしている。
「まだ仕事があるんじゃないのか?」
「今日やらなければならないものは片づけました」
「そもそも帰る方角が……」
「ライトさん」
 名前を呼ばれる。
「僕と一緒は嫌ですか?」
 そう口にして、寂しそうに眉根を寄せられる。置いて行かれることを恐れているかのようなエメラルドグリーンの瞳。不意に、懐かしいヴァイルスピークの情景が思い浮かんだ。
 ルシになって、飛空艇で最初に逃げついた場所だ。これから先どうしたらいいのか分からず、せめて一番力のあるライトニングの傍にいようと追いすがった少年の姿が脳裏をよぎる。要するに、ライトニングはこの目に弱いのだ。相手はとうの昔に成人を迎えたはずの男であるというのに。、
「……好きにしろ」
「はい。では好きにさせてもらいます」
 ちゃっかりしたもので、そう口にしたホープの声音は通常運転に戻っている。さっきのは演技か。思わず呆れつつも、まんまとそれにはまってしまったのは自分自身なので、口には出せない。
「ではライトさん。お送りさせてください」
 穏やかなホープの声が聞こえる。相変わらずのフェミニストだ。また一つ昔との共通点を見つけてしまって、ライトニングは溜息を吐くと、頷いてみせたのだった。

   * * *

 重力制御されたエアカーが、滑るように空中道路を走っていく。ほぼ自動操縦で走っているので、振動はほとんどなく、快適な運転だ。ライトで浮かび上がる風景が、次々に後ろへ流れていくのを眺めながら、ライトニングは居心地悪く身を捩じった。
 やっぱり落ち着かない。当たり前のようにエアカーに乗り込んで操縦を始めようとしたホープを思わず二度見してしまったくらいだ。十四歳のホープは当然免許なんて持っていなかったはずだし、そもそも運転などするのを見たためしもなかった。だから当然のように運転席に乗り込んだホープの姿にライトニングが違和感を持つのは仕方のないことだった。
 ライトニングが今住んでいる場所は、首都アカデミアではなく、海の見える小さな街だ。今日のアカデミー報告も、そこから電エアカーに乗ってやって来た。だから当然帰りは電車になるのだが、運転しますね、とさも当然のようにエスコートされてしまい、現在に至っている。
「そう言えば夕食はまだですよね。どこか店に入りましょうか」
 いや、遠慮する。そう口にしようとしたところで、タイミング悪くお腹がくう、と鳴る。なんて間の悪さだ。思わず赤面するライトニングの隣で、ホープはくすくすと楽しそうだ。
「この辺りはあまり店がありませんから、街に入ったら探し――…」
 ホープの言葉は最後まで続かなかった。エアカーのフロントガラスに、まるでバケツをひっくり返したような水しぶきが降りかかったからだ。
「何だ!?」
 とっさにライトニングはエアカー内で身構えた。曲がりなりにもホープはブーニベルゼにおいて重要人物だ。良くも悪くもそういった要の人間は標的になることをライトニングは理解している。
 エアカー全体がまるで滝にでも打たれているかのようだ。雨にしてもこんな激しい水量は異常と言えるだろう。そもそもブーニベルゼの天候はサーバーで完璧に制御されている。
「一体どうなってるんだ」
「ライトさんは周囲を警戒していてください。僕は原因を調べてみます」
「分かった」
 油断なく周囲の様子を伺うライトニングに背中を預け、ホープは運転を完全自動操縦に切り替えると、携帯端末を取り出した。途端、ホープを中心としてホログラムが展開される。まもなく彼は表示されたキーボードをものすごい勢いで叩き始めた。ライトニングさえも目を見張るほどの集中力だ。
 やがて一通りの操作を終えたのだろう。キーボードの最後の一文字をタン、と叩いてホープは穏やかな表情でライトニングに振り返ってみせた。
「天候管理システムのトラブルだったようです。今、管理者が復旧作業を行っています。復旧に少し時間はかかるでしょうが、一、二時間もすれば回復するかと思います」
 あそこの職員は優秀ですから。そう口にして、ホープは展開していたホログラムを片付ける。その言葉に、張り詰めたものが緩んだことが分かって、ライトニングは息を吐いた。どうやら、運悪くトラブルが発生したエリアに紛れ込んだだけのようだ。
「原因が分かったならいい。……しかし、すごい雨だな」
 ガラスを叩く雨粒はどれも大きくて、数メートル先の視界状況もままならない有様だ。
「ええ。今は自動操縦で走っていますが……一旦どこかにエアカーを停めた方がいいでしょうね」
 ホープの言葉はもっともで、ライトニングもまた頷いてみせた。いくら機械が優秀とは言え、この悪天候では事故に繋がりかねない。
「そうだな。……そう言えば、少し手前にホテルがあった。そこで軒先を借りるといいな」
 それならエアカーも停められるだろうし、時間も潰せる。妙案だとライトニングは思ったのだが、隣のホープは何とも言い難い妙な表情をしていた。
「ライトさんがそれでいいなら、僕は構いませんが……」
「なんだ。歯切れが悪いな」
「いえ……。少し手前でしたね。行きましょうか」
「? ああ」
 どうも含みのある言い方だ。腑に落ちないものの、ホープがハンドルを回してエアカーを切り返すのを見て、ライトニングはそれ以上言及するのをやめた。とにかく、事故にならないのが一番だ。こうして気さくに接してくれているからつい忘れそうになってしまうものの、ホープは今やこのブーニベルゼにとって失ってはならない重要人物なのだから。
 やがて来た道を走ること五、六分。豪雨で滲む視界の中に、建物が見えてきた。自動運転の補佐もあってか、ホープが滑らかな動きでエアカーを施設の中に滑らせていく。やはりこの酷い雨で雨宿りを考えた人がいたのだろう。ぽつぽつとエアカーが停まっているのは見かけたが、そこでふと、妙だなとライトニングは思った。こういった施設は、コストダウンを図るためにまとまった駐車場を屋外に設けることが多い。しかし、どうやらここは贅沢なことに各スペースごとに駐車場が割り当てられているようだ。
 屋根があるから濡れなくて助かるものの、変わったホテルだなと思う。少なくとも、ライトニングはこういうタイプのホテルを利用することは初めてだ。今の時代はこういう造りが主流なのか、とライトニングが一人納得しかけていると、重力装置が制止したのが分かった。目的地に到着したのだ。
「降りますか、ライトさん」
「ここまで来たら降りるだろう?」
 一体ホープは何を言っているんだろう。首を傾げたライトニングを前に、ホープは少しだけ眉根を寄せて、困ったような顔をする。
 先ほどからこんな表情ばかりだ。妙にはぐらかしていて、すっきりしない。
「私は先に行くぞ」
 ホテルと言ったって、フロントに事情を説明すれば軒下くらい貸してくれるだろう。せっかくだからここで食事を取ってもいい。施設を利用するなら、ホテル側にも迷惑はかからないはずだ。そう思いながらさっさとエアカーから降り、ライトニングは屋根伝いに歩いていく。
 ばたたっ、ばたたっと、滝のような雨音が響いている。まったく酷い雨だ。
 ホテルはずいぶんと親切な造りで、エアカーからさほど遠くない位置に扉が設えられていた。
(変わったホテルだな)
 入り口はここしか見当たらない。しかし、ホテルの入り口にしてはあまりにも質素すぎやないだろうか。普通、この手の施設は入ってすぐにロビーがあって、スタッフが対応してくれたりするものだ。出入りがしやすいように正面がガラス張りになっていたり、広い入り口を設けているものなのだが、どうにもこのホテルはそういった雰囲気を感じない。それどころか入り口を囲って、人に見られないようにさえしているような気配がある。
「ここでじっとしているわけにはいきませんし、入りますよ」
 ライトさん。そう口にしたのは、後ろから追いかけてきたホープだった。彼の一回り大きな手が、ドアの開閉を制御する端末に触れる。シュンッと扉が横にスライドして、ロビーも受付もすっ飛ばして、いきなり部屋の個室がライトニングの目の前に現れた。予想だにしていなかった光景にライトニングの目が丸くなる。
 目の前に開けた空間でまっさきに目についたのは大きなキングサイズのベッドだった。しかも、天蓋付きの豪華なやつだ。いかにも寝心地がよさそうなベッドには仲良く枕が二つ並んでいる。その隣に隣接しているのは全面ガラス張りのバスルームだ。こちらもゆったりと広くスペースがとってあって寛げそうな雰囲気が漂うものの、カーテンなど視界を遮るものは何もなく、外からはほとんど丸見えになってしまっているのではないか。ふかふかとしたソファ。壁には薄型のディスプレイがかかっている。個室としての機能は十分に兼ね揃えながらも、意図的にプライバシーを取り払われた空間。しかし、出入り口は人目につかないように配慮されている。――そんなものを連想させるホテルなんて、限られている。
「やっぱり気が付いてなかったんですね」
 部屋の入り口で唖然として立ち尽くしているライトニングを前に、困ったように眉根を寄せたのはホープだ。
 ラブホテル。ほとんど唇の形だけで指し示されたその単語は、いわゆる体の関係を手っ取り早く満たすことができる場所、とライトニングは認識している。そんなところに、あのホープと二人きり。
「お、お、おまえは……分かって……!?」
「はい」
 さらりと返事される。道理で微妙な顔をしていると思ったら! ここへ至るまでのおのれの返答を思い出して、ライトニングは頭を抱えたくなった。こんなの、自分から誘ってるも同然じゃないか……!
「ライトさん」
 不意に名前を呼ばれて、ライトニングは自分でも不自然に思うほどびくりと体を震わせた。
「な、なんだ……」
「僕、聞きましたよね? ライトさんがそれでいいなら、僕は構いません……って」
 それは、ここに来る前のやり取りを指しているのだろう。確かにそう口にした。口にはしたけども、そもそもそういうつもりでここには来ていない!
 じり、と思わず後ずさる。そうすると、ライトニングを追うようにホープもまた距離を詰める。元々壁際に立っていたものだから、あっという間に角に追い込まれてしまって、ライトニングは信じられない思いでホープを見上げた。
 丁度照明の逆光になっていて、その表情は読めない。ただ分かるのは、目の前に立っているのは、五百年前に共に旅をしていたホープとはまるで違っているということだ。ホープは望んでいるのだろうか。ライトニングと関係を作ることを。
 ……いや、とも思う。今やホープはアカデミーの最高顧問だ。それほどの地位ともなれば、女など引く手あまたのはずだ。こんな武骨な元軍人など選ぶだろうか。少なくとも、ライトニングだったらもっと可愛げのある愛想のいい女を選ぶ。そうだ、そうに決まっている。なのに、壁際に追い詰めてくるホープの距離は縮まってくるばかりで。
「ホープ、冗談はよせ」
「冗談じゃない、と言ったら?」
「……っ」
 ライトさん、ライトさん。そう親しみを込めて、ライトニングの後を付いてきていた小さな少年。女性にしては背の高い部類に入るライトニングは、いつだって彼と目線を合わせる時は下を向かなければならなかった。パーティ内で一番小柄で、幼くて、それ故にみんなから可愛がられていた少年。ライトニングが体験として知っているホープ・エストハイムは、少年時代で時が止まっている。
 だから、こんな風にライトニングが見上げなければ表情を確かめることのできないホープのことを知らない。少年時代から思春期を経て、成人を迎え、そして経験を重ねていった過程をすっ飛ばして再び会ったホープは、ライトニングにとって知らない男の人だった。
 その大きな手も、低い声も、見上げなければならない身長も、突き出た喉仏も。ぜんぶ、ぜんぶが知らないものだ。「ライトさん」そう呼ばれる言葉の親しさは変わらないのに、彼のなにもかもがすっかり変わってしまっていて、大人になってしまっていて、どう接していいのか皆目見当がつかない。
 振りほどけばいいのだ。こんなつもりで来たのではない、と。ただの雨宿り。そのはずだった。ここに来たのだって、偶然建物が見えたから、それまでだ。他意なんてない。
 だけど喉はからからに乾いていて、舌が絡まってしまったように動かない。おまえにはもっと可愛げのある女がいい。――例えば、ヴァニラのような。同性から見ても華があって、明るい気質の娘が合う。そう口にすればいいのに、言葉はちっとも音になってはくれなくて。
 不意に、今日は下着の上下が揃っていないことを思い出してしまった。あまつさえ、可愛さの欠片もないスポーツタイプだ。違う、そんなことを気にしている場合ではない。そもそも、ホープとはただ仲間だっただけで、そういうことをする関係じゃない! はずだ!!
「ライトさん」
 名前を呼ばれる。かつて、ヴァイルスピークでそう呼んでいいと、ライトニングが口にした通りに。ホープの指先が伸びてきて、思わずライトニングはびくりと体を震わせた。
 まるで蛇ににらまれた蛙みたいだ。目にかけていた可愛い弟のような存在。ホープはそういう立ち位置だったはずだ。そうだというのに自分のこの動揺具合は一体何だ。まるで、ホープに気があるみたいじゃないか――…。
 ホープの長い指先が顎に触れたことが分かった。そのままくいっと少しだけ上に持ち上げられる。そうすると、視界より高い位置にあるホープの顔が見えてくる。
 じっと見降ろしてくるエメラルドグリーンの瞳。真剣な表情をしている。ただまっすぐにライトニングに向けられる視線に、どきんと心臓が音を立てたのが分かった。動けない。こんな風に見つめられたら、どうしていいのか分からない。そうだと言うのに、ホープはちょっと頭を屈めて目線を合わせて。近づいてくる顔を、穴が開くほど見つめているライトニングの額に、とん、と指先が当てられた。
「顔、真っ赤ですよ」
 その言葉で、まるで魔法が解けたみたいに硬直していた体は動き出した。
「う、うるさい!」
「いや、そんな顔で言われても」
「そんなに殴られたいのか」
「いえ。僕は肉体派じゃないのでご遠慮しておきます」
「……ふんっ」
 まったく、なんて奴だ。からかわれていたことを理解して、ライトニングはほっとするやら、腹立たしいやらで忙しい。不覚にもキスされてしまうのかと思ってしまった。そう思うだけならまだいい。よりにもよって、そんな場面で避けるも防ぐもできずに立ち尽くしていた自分が信じられなかった。
(これじゃあ私はホープのことを……)
 そこまで考えて、また思考が茹で上がりそうになる。相手はホープだぞ。あの子供だったホープ。そう言い聞かせども、見上げた時の背の高さだと、見つめられた時の瞳の強さを思い出してしまって、顔の火照りがちっとも取れてくれやしない。
「ほら、ライトさん。入り口に突っ立てないで、座りましょう。ルームサービスもありますよ」
 信じられないことに、ホープはこんな環境でもすっかり動じずに、あまつさえ電子パネルでルームサービスを物色している。
「そんなに警戒しなくても、手を出しませんから」
「別に、おまえに警戒なんて……」
 思わず声がひっくり返ってしまって、ライトニングは慌てて唾を飲み込んだ。ここにきてからすっかりホープにペースを乱されている。
「はいはい、そういうことにしておきましょうか」
 呆れたような物言いは、どうにも余裕ぶっているようにさえ見えて、それがまた腹立たしい。昔はもっと可愛げがあったのに。少し見ない内にホープはすっかり可愛げがなくなってしまった。
 とは言え、腹が減っていたことは事実だった。おまけに立ち往生になって、時間ばかりが過ぎてしまっていたから、改めて電子パネルで食事を表示されれば否が応でも空腹を思い出してしまう。そろそろとホープに近づけば、彼は開いていた画面をライトニングに見せてくれた。パスタ、ドリア、グラタン。いかにも体が温まりそうなメニューが、画面の端から端までさもうまそうに並べられている。
「ここで注文したら届けてくれるのだろうか」
 普段行くような飲食店とはまた勝手が違う。メニューを覗き込みながら首を捻るライトニングを前に、ホープは穏やかに答えてみせる。
「そこに小窓があるでしょう? あそこから提供してくれるんですよ。精算機が出口にありますから、支払いはそこで行えます」
 つまり最初から最後まで従業員と対面することなく立ち去れるというわけだ。客が気まずい思いをしないための配慮なのだろう。徹底したサービスに内心舌を巻きながらも、ライトニングはふと違和感を覚えて口にした。
「やけに詳しいな。……よく利用するのか?」
「さあ、どうでしょう」
 ……はぐらかされた。なんだかそれにちくんと胸が痛んだような気がして、ライトニングは顔を上げる。痛いってなんだ。痛いって。別にホープが誰とどうこうしようがライトニングには関係ないはずだ。そう言い聞かせるのに、胸のところがちくちくと針で刺したように痛いのはどうしてなのだろう。
「……カルボナーラとエビグラタンとサーモンのカルパッチョとマルゲリータとドリンクはメロンソーダ、あとはパンナコッタとティラミスも付ける」
「え」
 メニューに書かれているものを片っ端から読み上げると、ホープが驚いたように目を丸くしたのが分かった。
「そんなに食べるんですか!?」
「安心しろ、私一人で食べてやる」
「そう言えばライトさん食べるんでしたね……」
 食べれる時はしっかり食べるをモットーにファングやスノウと変わらぬ量を食べていたライトニングの姿を思い出したのだろう。おかげで旅の最中、よく食事の奪い合いをしたものだ。
「せっかく来たんだ。腹いっぱい食べてやる」
「どういう理屈ですかそれ……」
 呆れたようにホープが溜息を吐いているが、そんなことは知ったことではない。ポチポチと電子パネルを指で押しながら、ライトニングはさっさと注文をすませてしまった。あてつけのように送信完了してからホープにパネルを突き返せば、じゃあ僕はコーヒーにしますね。とこちらもこちらでマイペースだ。
 ざああ、と軒を叩く激しい雨音は続いている。ラブホテルの一室で妙齢の男女が二人きり。普通に考えれば何かあってもおかしくはないシチュエーション。そんな状況で、あの少年だったホープが大人になってライトニングの前に座っている。にわかには信じ難い光景だ。
「どうかしましたか、ライトさん」
 不意に、ホープと目線が合う。柔らかく細められたエメラルドグリーンの輝きに、どきっと心臓が音を立てた。
「何でもない!」
 心頭滅却すれば火もまた涼し。咄嗟に頭の中でそう呟いて、過剰な反応をしてしまいそうになる自分を必死で押さえ込む。
 別になんてことはないはずだ。ライトニングとホープはただの旧知の仲間というだけであって、それ以上のものはないはずなのだから。
 口の中で何度も言い聞かせる。ライトニングの静かな戦いは、まさに今、火蓋を切って落とされようとしていた。

   * * *

「圧巻ですね……」
 おそらく食事をすること(それも大量な)を想定されていないテーブルの上には、ライトニングが注文した山のような食事が乗せられている。
 カルボナーラ、エビグラタン、サーモンのカルパッチョ、マルゲリータ。ドリンクはメロンソーダ、おまけにデザートにパンナコッタとティラミス付き。
 乗り切らなかったものは、盆に乗せてベッドの上に並べられる始末だ。その圧倒的な物量を前に、ホープが感嘆の声を上げるのも無理のないことだろう。ちなみに彼はちゃっかり注文したコーヒーを片手に座っていた。
「ライトさんのことだから心配してませんが、改めて見るとすごい量ですよね」
「……やらないぞ」
「僕はこれで十分ですから、お構いなく」
 なんだかグラン=パルスの食事を思い出すなあ。しみじみとした口調のホープが、遠い昔を思い出すような口調になるのが分かる。
 ライトニングが軍を抜けて、ホープもまだ十四歳だった頃の話だ。ファルシ=マニアによってルシにされ、『コクーンを破壊せよ』という使命から逃れる方法がないかと、グラン=パルスを練り歩いた日々。当時、食の細いホープを気遣ってライトニングやファングが食べ物をよく勧めたものだった。丸焼きにされた魔物の肉を突き出される度に、ホープは「もうこれ以上は食べられません」と困ったように口にしていたのだ。もうずいぶんと懐かしい記憶。
「おまえは昔から食が細かったからな」
「成長期には、これでも結構食べたはずなんですけどね」
「そうなのか?」
 小皿に取り分けていたライトニングの手がぴたりと止まる。ライトニングの記憶の中のホープは、いつだってさほど量を食べていなかったはずだった。
「ええ。まあもう、成長期はとっくに抜けちゃいましたけど」
 四捨五入しちゃうと、僕だってもうアラサーなんですよ。ホープは何てことないように軽口を叩くけれど、その何気なさを装った言葉に、ライトニングは思わず目を伏せた。
 今日一体、何度となく思ったことだろう。
 ライトニングは思春期だったホープを知らない。コクーンを救ったその直後、混沌に引きずり込まれ、ヴァルハラでの戦いに明け暮れていたライトニングは、十四歳以降のホープがどんな風に少年から青年へと成長していったのか見届けることはできなかった。
 確かにヴァルハラではすべてが“視えて”いた。ホープが苦悩しながらも、アカデミーの中で必死に未来を掴もうと戦っていたことを知っている。だけど、それは実感を伴った体験ではない。ただ、“視て”知っていただけだ。
 だからこうして再び会った二十七歳のホープは、あの頃とは違ってすっかり大人になってしまっていて。妙に余裕があって。ほとんど知らない人のようになってしまっているのに、時折昔の面影を垣間見せるから、どうしていいのか分からないのだ。
「ライトさん?」
 手が止まってますよ。視線を上げると、微苦笑しているホープの顔が目の前にある。気まずくなって、ライトニングは視線を移した。
「……少し、考え事をしていた」
 気にしないでくれ。そう口にして、再開した食事の味は旨いのだかまずいのだか、よく分からなくなっていた。そんなライトニングの内心を知ってか知らずか、ホープは優雅にコーヒーを啜っている。何となく無言になって、フォークを進めていく。カルボナーラを綺麗に巻き取って口に運びながらも、ライトニングは先ほどホープが発した言葉を忘れられずにいた。
 ――成長期はとっくに抜けちゃいましたけどね。
 ホープは今や二十七歳だ。ライトニングが出会った時は十四歳だったから、あれから実に十三年の月日が流れている。つまり、当時の彼の人生の倍近い時間が過ぎているのだ。
 ここにいるのは、もうあの頃の幼いホープじゃない。そんなことは痛いくらいによく分かっていたけれど、やっぱりどういうふうに接したらいいのかその距離感を掴みかねるのだ。
 昔のように面倒を見る必要なんてない。ホープはもう、とうの昔に自立した大人の男になっているのだから、ただの旧知の友人であるように接すればいいはずなのだ。そう頭では理解しているはずなのに、なぜだか、ラブホテルで二人きりになっている。関係性にちっともそぐわない場所だというのに、なぜかそこで夕食を取っているのだから、摩訶不思議な話だ。
「……さん?」
 どうやら、すっかり考え込んでしまっていたらしい。ホープの声にはっとしてライトニングは顔を上げた。
「ティラミス、零してますよ」
「あ……ああ」
 元々崩れやすいティラミスを、フォークに突き刺したまま思考していたものだから、零してしまっていたらしい。行儀の悪いことをした。ホープの言葉に視線を下げると、アカデミー支給の白い制服の上に、転々と黒い生地が飛んでいるのが分かる。
「考え事をしていた」
「ええ。ですが、シミになる前に洗ったほうがいいですよ」
 バターを含んでますからね。そう続いたホープの言葉はもっともで、ライトニングは思わず顔をしかめてみせた。
「このアカデミー服のデザインはどうにかならないのか。白だと汚れが気になってかなわない」
「そういう声も上がってはいるんですけどね。なまじ長く採用されたデザインですから」
 煮え切らない返答というか何というか。わざと濁しているのだろう。ホープの言葉に、余計な言葉が過ぎたなとライトニングは苦笑すると、残るティラミスを口の中に放り込んで立ち上がった。
「上着を洗ってくる」
「はい」
 水が使えそうな所……となると、バスルームなんだろうな。そこまで考えてから、ライトニングは再び頭を抱えたくなった。目の前のバスルームは、確かに個室として体裁は整っているものの、全面ガラス張りであることを思い出したからだ。
 だから、なんだって全部丸見えにしたんだ。
 設計主に問いただしたいのは山々であるものの、ここがラブホテルである以上、それは無粋というものだ。というかそれ以外の意図が考えられない。ホープの視線を感じながら、ライトニングは思わず立ちすくんだ。
 上着を洗うなら脱がなければならない。……もちろん、下にはインナーを着てはいる。着てはいるが、この金具の多い、無駄に面倒くさい制服を脱ぐ姿をホープに見られるというのか。
 自然、頬に熱が集まってくるのが分かる。ライトニングはちらりと背後に視線を向けた。ホープは相変わらず読めない表情を浮かべたまま、こちらを見ているのが分かる。向こうを向いていてくれ。そう口にすべきかどうか悩んで、ライトニングは結局口にするのをやめた。
 上着の下にインナーはちゃんと着ているのだ。それに、そんなことを口にしようものなら、ホープを意識しているみたいにとられそうで(実際にそうなのだが)悔しいという思いがあった。
 なんてことはない。ただ、上着の汚れを落とすために、脱ぐだけだ。別にそれでどうこうするわけじゃない。
 必死で自分にそう言い聞かせて、ライトニングはアカデミーの制服に手をかけた。身に着ける度にどうしてこんなまどろっこしいデザインにしたのだと呆れ果てているものだ。金具を指先で一つずつ外していかなければならないのだが、妙に手が強張ってしまってスムーズにいかない。
 ああもう、なんでこんなにまどろっこしいんだ! いつも以上に手こずりながら、ライトニングは上着の金具を順番に外していく。背後のホープは何も言葉を発することはなく、ただライトニングの後姿を見ているだけだ。そうだというのに、見られていることがこんなにも恥ずかしいことだなんて知らなかった。やましいことなんて、全然、まったく、ないはずなのに。
 ようやく最後の金具を外して、ライトニングは上着の袖から腕を引き抜いた。衣擦れ音が妙に生々しく聞こえる。それを必死で聞かなかったふりをして、ライトニングは全面ガラス張りのバスルームへと飛び込んだ。
 シミにならないように、汚れを取るだけだ。それ以外に他意はないし、あり得るはずがない。ライトニングはポケットティッシュを取り出すと、上着のシミになっているところに当てて、油分を吸い取った。続いてハンカチをシミになっている裏地の部分に当てる。先ほど使ったポケットティッシュに備え付けのボディソープを少量染み込ませて、上着のシミにとんとんと叩くようにして当てていった。これで大方の処置は終わりだ。後は、新しいティッシュを水で湿らせて、もう一度上着の上から叩いてボディソープを落としてやればいい。
 作業の目途が立って、ライトニングはふうと息を付いた。集中さえしていれば、シミ一つ、どうということはないのだ。なんとなく晴れやかな気分になって顔を上げる。もともとライトニング自身は掃除や武器の手入れといったことは得意な性質だ。几帳面な性格に合っている。
 はたと、顔を上げた拍子にホープのエメラルドグリーンの瞳と目が合った。ガラス越しにホープがライトニングのことを見ている。その視線が思いがけず真剣なものだったような気がして、思わず上げた顔を下げてしまった。
 どきん、どきんと心臓の音が妙に加速している。視線を下げた拍子に、今の自分の格好に改めて気が付いて、なんだか気恥ずかしくなった。
 アカデミーの揃いの制服。白と黄色を基調とした上着の下は、何の変哲もない白のワイシャツだ。ネクタイは流石に邪魔だったので外したものの、ワイシャツのボタンはかっちりと上から下まで留めている。そう、ちゃんと着ているのだ。
 それなのに、どうしてだろう。ガラス越しに見ていたホープのエメラルドグリーンの瞳がこびりついて離れない。ふとした弾みに交わった視線は、真剣で、どこか熱っぽくて。まるで、何もかもを見透かされているようだ。
 そんな風に見つめられることなんて、今までなかった。知りもしなかった。だから、どうしたらいいのかライトニングは分かりあぐねているのだ。
 自意識過剰だ。ただホープはこっちの様子を伺っているだけだ。そうおのれの説得を試みても、この場所が場所だけにどうしても意識にこびり付いてしまって外れない。
 服だって着ている。指一本触れてなんていない。だけど、ガラス越しにホープに見つめられていると思うと、心臓はものすごい勢いで音を立てるし、頭の中はぐちゃぐちゃになるしで、どうしていいのか分からなくなる。
 ライトニングはコックを握りめた。とにかく、一刻も早く上着の汚れを落として、ここから撤退しよう。そうだ、それがいいに違いない。勢いよくコックを捻る。次の瞬間、シャワーのホースから大量の水がライトニングの頭上に降り注いだ。
 一体、何が起こったのか理解できず、ライトニングはただ茫然と立ち尽くしていた。はっとして、コックを捻り直す。シャワー用のコックと吐水口用のコックを捻り間違えていたのだ。
 ぴちょん、ぴちょんと水音が響いている。あまりにも単純で初歩的なミス。しかし、今更時は巻き戻せない。――ライトニングは文字通り、全身濡れ鼠と化していた。
「……やってしまった」
 もはや上着どころの話ではない。上から下までずぶ濡れだ。雨宿りをするためにホテルに入ったというのに、そこでずぶ濡れになるだなんて本末転倒もいいところではないだろうか。もちろん、服の替えなど持っていない。
 髪から冷たいしずくがぽたぽたと落ちてきているのが分かる。冷水の冷たさに思わず体がぶるりと震えた。
「ライトさん」
 ふとガラス越しにホープの声が聞こえて、ライトニングは顔を上げた。見れば、彼の手には白いバスローブが握られている。どうやらライトニングの失敗は、全面ガラスによってしっかりとホープの目にも捉えられていたらしい。思わず赤面して、ライトニングはバスルームから顔を覗かせた。
「すまない」
「いえ。……その、風邪をひくといけませんから、早く羽織ったほうがいいですよ。僕はあちらを向いていますので」
 そう穏やかに口にして、ホープはベッド側の壁を指差してみせた。こうなってしまった以上、彼の言葉に甘えざるを得ないだろう。
「分かった」
 そう短く返事して、ライトニングはバスローブを受け取った。ほんのりといい香りがする。バスルームのラックからタオルを引っ張り出して、ライトニングはそれを頭から被ってみせた。柔らかい布地が水気を吸い取ってくれる感覚がある。
 ガラス越しにホープを見れば、彼は言葉の通り壁側の方角を向いていてくれた。それを見届けて、ライトニングは手早くバスローブをラックの上に乗せると、ワイシャツのボタンを外すために視線を下した。――途端、思わず息をのむ。理由は至って単純だ。水に濡れたワイシャツがくっきりと下着の線を浮かび上がらせていたからだ。
 今日身に着けていた下着の色は黒だった。白いワイシャツだから、なおさらはっきりと映り込んでいたのだろう。張り付いたシャツから覗く肌色と黒色。……バスローブを手渡したホープはなんてことない顔色をしていたが、きっと全部見えてしまっていたのだろう。そう思うと、羞恥でどうにかなってしまいそうだ。
 見たかどうかなんて確認しなくとも、これほどくっきりと浮き出ているのだ。見えてしまっていたに違いない。だけど、ホープは顔色一つ変えなかった。それどころか、バスローブを差し出してみせるスマートさを見せた。ライトニングに恥をかかせないよう配慮してくれたのだ。
 彼はきっとこの程度の経験はとうに通り過ぎているに違いない。ホテルのことを知っていたといい、女への扱い方といい、妙に手馴れていたし、無駄がない。――彼は成人男性なのだ。十四歳の少年とは訳が違う。それなりに女性経験があるだろうし、何よりあの性格とルックスだ。他の女が放っておくはずがない。だから下着の一つや二つ見られてライトニングが慌てようが、ホープにとってはどうってことないことなのだ。
 つきり、と胸が痛んだ。今更自分の在り方が変わるわけでもない。過ぎ去った時間が巻き戻るわけでもない。そんなことは、ヴァルハラで十分すぎるほど思い知った。
 住む場所も、人も、街も。何もかもが新しくなった場所で、ライトニングは“今”を生きている。二十一歳でヴァルハラへと引きずり込まれたあの瞬間に失ったはずの人生を再び歩み直している。だから、あれから十三年もの時を過ごしたホープに比べれば出遅れていることなんて、当たり前なのだ。
 理屈では理解している。それは、もはや今更どうにもならないことだ。
 「ライトさん」と誇らしげに見上げてきた、あの幼かった少年の空白の時間。そこで彼が何を学び、考え、経験していったのか。同じ時の中で知る術は、もはやライトニングには残っていない。
「……っ」
 ほとんど力任せに、ライトニングはワイシャツのボタンを外してシャツを抜き取った。すっかり濡れてしまったブラジャーと制服のスカートも外す。辛うじてショーツだけは無事だったことが判明する。衣擦れ音がまた生々しく感じて、恥ずかしくてたまらなかったが、こればかりはどうしようもない。
 濡れた服を全部取り払って、ライトニングはバスローブを羽織った。ふっかりと柔らかくて、温かい。素肌の上にこういうものを羽織るのは初めてで、少し勝手が分からなかったものの何とか紐らしいものを見つけて前で留めてみせた。濡れた髪はタオルで軽く水気をふき取る。入口に置いてあったハンガーに濡れた服をかけて下着をひっかければ、とりあえず一息ついた。服は後でドライヤーでもかけたらいい。
 過剰に意識してしまいそうになるのをなんとか押し留めて、ライトニングは再び部屋の中に戻ってきた。ホープの後ろ姿が見える。彼は口にした通り、壁側を向いていてくれていたようだった。
「……出たぞ」
 我ながら、うまく平静を装った声が出たと思う。ホープは「振り返っていいですか」と訊ねた。その言葉に、ああ、と返事を返してみせる。
 ホープがゆっくりと振り向くのが分かる。そのエメラルドグリーンの瞳がさっとライトニングの姿を捉えたのが分かって、なんだか逃げ出したくなった。その衝動を何とかこらえて、臆病になりそうな自分を振り払うように声を上げる。
「こういうのは初めて着たんだが、意外に悪くないな」
「機能的にできていますからね。案外快適でしょう」
 ……さらっとかわしてきた。そつのないホープの言葉に、なんとなくむっとなる。ライトニングがこれを着るのにいったいどれほどの覚悟を必要としたか知りもしないくせに、目の前の男は白々しい。澄まし顔のホープにだんだん腹が立ってきて、ライトニングは膝をベッドにかけて、体重を乗せてみた。
(私ばかり意識して、馬鹿みたいじゃないか)
 こうなったら、そのすまし顔を崩してでもやらないと腹の虫が治まらない。
 ぎしっとベッドが軋む音がする。ホープが瞬きするのが分かった。
「いい生地を使っているな。肌触りがいい」
 そう口にして、少しだけ……本当に少しだけ、胸に手を当てた格好のまま、前屈みになってみた。豊か、とまではいかないものの、寄せて上げれば一瞬くらい谷間は作れる。
 馬鹿々々しい。いつもの自分であれば一笑してみせただろう。“女”を武器にする輩を寧ろ嫌悪してきたくらいだ。それなのに、そこまでしたのに。目の前の男はにこりと微笑むと、余裕の表情で足を組み替えてみせる。
「施設の造りといい、比較的新しいところみたいですね。雰囲気もいいですし、繁盛しているんでしょう」
 なんだか酷く自分が情けなく思えた。こんな馬鹿々々しい行いまでして、自分は一体何をしているのだろう。
 ホープの余裕を崩してみたい? それこそ、子供じみた考えじゃないか。自分が招いた失敗の腹いせに、ホープの慌てた顔を引き出したいなんて、お門違いもいいところだ。
 本当に、馬鹿な真似をした。そもそも、ホープからすればライトニングは“対象外”もいいところなのだろう。こんな見当外れな色仕掛けみたいなこと、やるんじゃなかった。
 そこまで考えて、急速に胸の奥が冷えていくような気がした。ホープに悪いことをしてしまった罪悪感で、体を引く。その時、慣れないバスローブの生地に膝をひっかけて、ライトニングの視界は反転した。
「……った」
 柔らかい感触がある。はっとして視線を下げると、どうやら隣のホープを巻き込んでしまったらしい。ホープの上にライトニングが覆いかぶさっている状態になっていた。
「すまない」
 慌てて身を引こうとする。その手首をふいに握りしめられて、再びライトニングの視界は反転した。
「誘っているんですか」
 ライトさん。そう囁いたホープの声が、今まで聞いたどんな言葉よりも低くて、ライトニングは思わず瞳を瞬かせた。
 視線の先には、逆光になったホープの端正な顔がある。手首を抑え込むように伸ばされた二本の腕。
 ホープに押し倒されているのだ。眼前に広がる状況が理解できなくて、ライトニングは目を白黒させた。
「僕の理性を試すようなことばかりして……。ライトさん、本当に分かっているんですか?」
 あなたは自分の魅力を全然分かっていない。
 まるで獲物を狙う狼のようなぎらぎらとした瞳。それが、ライトニングのことを真正面から見下ろしている。
 目の前の状況が信じられなかった。さっきまでのホープは、すっかり大人の余裕で受け答えをしていたはずだ。そうだと言うのに、この豹変具合は一体なんだ。余裕だなんて一切感じられない男の、低い声が降ってくる。
「それとも何ですか。あなたは、男とホテルに入ったら“そういうこと”をするんですか」
 その口調に含まれているのは明確な怒気だ。
「ち、違……」
 不意に、ホープの距離が近くなった。彼の顔が近づいてきて、首筋に触れる。次の瞬間、耳のすぐ下の場所にちりっとした熱い痛みを感じて、ライトニングは思わず身を強張らせた。
「僕のだ」
「ホ、ホープ」
 吸い込まれそうなエメラルドグリーンの瞳が、近い場所にある。目が離せない。離すことができない。まるで金縛りにあってしまったかのように、ホープが近づいてくるのを見ていることしかできない。
「ライトさんは、僕の……」
 端正な顔が降ってくる。薄い唇が目に入った。そこから発せられる低い声に囚われてしまう。――キス、される。降ってくる影に身を竦めて、ライトニングは強く目を瞑った。
「…………なんて、ね」
 とん、と額に人差し指を当てられる。一瞬、何が起こったのか分からなかった。そうして理解する。ホープにからかわれたのだ。
 瞬間、かっと頭に血が昇った。「馬鹿にするな」そう掴みかかろうと起き上がろうとしたライトニングの口元を、大きな手のひらが覆う。
「今はまだ、そういうことにしておいてください」
 耳元で囁かれた言葉の低さに、ぞくりと全身が粟立った。
「じゃないと、滅茶苦茶にしそうになる」
 その言葉の甘やかさに、眩暈がしそうだった。思わず目を剥いたライトニングが瞬きをする間に、ホープの表情はいつもの澄ましたものに戻っている。さっきまであんなに近くで囁いていたことが、まるで嘘みたいに。
 今更ながらにじんわりと頬に熱が灯っていく感覚があった。……こういう不意打ちは、ずるい。どうしようもなく勘違いしそうになってしまう。
「……服を乾かしてくる」
 せめて顔の火照りがばれないようにと立ち上がったものの、そんなものはきっと見透かされてしまっているに違いない。元々頭のいい子だ。その頭の良さを生かして大人になった今のホープからすれば、子供だましもいいところだろうけれど。
(あんな顔、初めて見たぞ)
 余裕なくライトニングを見下ろしていたホープの顔が、まだ瞼の裏側にこびりついている。キスされるのかと思った。咄嗟に逃げようと思えなかった。……本当に、どうかしている。
 備え付けられていたドライヤーを引っ張り出して、ハンガーにかけていた服を手に取る。ホープに背を向けた格好のまま、ライトニングはスイッチを押した。稼働音と共に温風が排出口から噴き出してくる。
(――ああ、くそっ)
 心の中で悪態を付きながら、ライトニングは淡々と濡れた服にドライヤーを当てていった。
 後ろのホープが何を考えて、見ているのかは分からない。だけど、彼の近くにいるとこんなにも胸がざわざわとして落ち着かない。
(こんなの、どうかしている)
 本来なら、もはや立場が違いすぎて接する機会などとんとないはずの男だ。そうだというのに、こんなにもライトニングの胸をかき乱して止まらない。それが嫌じゃないから……本当に、本当に不本意ながら、悔しいのだ。
 服は十分すぎるくらいに温風を当てられて、すっかり乾いてしまった。ちらりと後ろに視線だけ向けてみると、目を細めてこちらを見ているエメラルドグリーンの瞳とぶつかる。それがまた、ライトニングをどぎまぎさせてしょうがないのだ。
 ラブホテルの中に妙齢の男女が二人きり。それも相手はあのホープ。
(これじゃあいくつあっても心臓が足りない)
 降参だ、そう言わんばかりに目を閉じてライトニングは天を仰いだ。システムの復旧まで、あとどのくらいの時間がかかるのだろう。それまでの間、いったいどう過ごせばいいのやら。
 すっかり乾ききってしまった服を前に途方に暮れる。
 恋人関係どころか、何も始まっていないはずなのに、一体どうしてこんなことになってしまったのか。ライトニングは大きなため息を一つ吐いた。
 心臓の動悸は、まだ、治まってくれそうにない。
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