2016.04.02 執筆
2018.03.03 公開

零れ落ちた

 お守りだ。そう言って渡してくれた、ライトさんのナイフ。僕はそれを彼女に差し出して、苦笑した。
「ノラ作戦……失敗です」
 ライトさんのアイスブルーの瞳が大きく開かれる。一瞬だけ泣きそうになった、ライトさんの表情。あっと思った次の瞬間には、薔薇色の髪が目の前にやって来て、強く抱きしめられる。
「守るから……私が守る」
 立ちすくむ僕を抱きしめて、絞り出すようにしてライトさんはそう言った。
「ライトさん――」
 その腕の強さから、彼女の想いに初めて気が付く。ライトさんは、ずっと僕のことを心配して、見守り続けてくれた。なのに、僕はスノウに復讐することで頭がいっぱいで。……そんなライトさんの気持ちに気がついてあげることができなかった。
 一体、どれだけ心配をかけたのだろう。抱きしめてくれた腕は、微かに震えていた。僕がセラさんから託されたお守りで、スノウを刺し殺す。そんな、ありえたかもしれない未来にライトさんがどれだけ胸を痛めていたのか、今更のように知る。
 ごめんなさい、ライトさん。
 胸に浮かんだのは懺悔。それから――…
「あの……僕も」
 すぐ近くにあるライトさんの顔を見上げるようにして、言葉を続ける。
「ライトさんを守れたらって」
 驚いたような顔をしたライトさんが、僕の背中に回した腕を解く。肩に手を添えたまま、きょとんとしたライトさんの表情がなんだかとても新鮮で……年上のお姉さんなのに、可愛く見えたのが不思議だった。
 いつもは気難しい表情のライトさんが、ふわっと花が綻ぶように優しく微笑んだ。そのまま、優しい力で額を押される。そんなたわいないやりとりに、思わず笑い声が溢れた。僕を見るライトさんの瞳は、どこまでも柔らかい。
「こっちも気にしてやれよ」
 呆れたようなファングさんの声が響く。傍には倒れたままのスノウと、今まで様子を見守っていたファングさんの姿があった。
「そう簡単にくたばらないさ」
 微笑んで、ライトさんがスノウの傍へと歩み寄っていく。その後ろ姿を見つめながら、僕はようやく、一つ荷物を降ろしたような気持ちになった。

   * * *

 なぜ、今になって、あの時の光景が蘇ったのだろう。
 滲む視界の中で過ぎった走馬灯に、僕の口から苦笑が溢れた。――スノウを殺したいほど憎んでいた。憎まずにはいられなかった。そうじゃないと、母さんが死んだ悲しみを乗り越えることができなかったから。
 仕方のないことだと言い聞かせて飲み込むには、僕はあまりにも幼かった。そんな僕をずっと見守り、守ろうとしてくれた背中。
 強い人だと思ってた。揺るぎのない、心と力の強さを兼ね揃えた人だと。だけど、本当はただ強がっているだけの、単なる普通の女の人で。そんなライトさんのことを守りたいって、あの時、強く思ったんだ。
「……ああ」
 短く息を零す。瞬間、ごぼりと血が喉の奥から溢れ出て、僕は身を捩った。
 デミ・ファルシ。僕らは、選択を誤った。
 “ファルシを創ること”は間違いだったのだ。
「今更、気が付くなんて」
 違う。認めることが辛くて、ずっと目を逸していただけだった。彼女が、――ライトさんのことが、あの時からずっと好きだったってこと。
 アリサや研究者たちが僕の目の前には横たわっている。まもなく、僕もあちら側へいくのだろう。目の前に広がっていく血の泥濘に、僕は薄く唇を持ち上げた。
 守りたかった。守れなかった。……それだけが、無念だ。
 胸の中に広がっていくのは後悔だった。コクーンを守るだなんて高尚なものでもなんでもなくて、最期に浮かんだのは、ライトさんの笑顔だったことが、なんだか笑えてしまう。
 一筋の涙が、頬を伝って零れ落ちた。
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