2016.03.06 執筆
2017.07.21 改訂

猫にマタタビ

 旅人がある木の実を口にした。すると疲れがすっかり取れて、また旅ができたるようになったそうだ。だからその実の名前は「マタタビ」。名前というものには、それぞれ由来があるものだ。紐解いていくのはとても興味深い。
 そんな謂れのある木の枝を手にしたのは、ある意味で確信犯だった。解放者として人々の魂を救っているはずのライトさんがある日の6時、いつも通りに帰還したと思ったら、その頭のお尻からは猫の耳と尻尾がふさふさと揺れていたのだ。
 流石に神経は通っていないだろう。そう思った。だけど、ぴくぴくと小刻みに動く耳や尻尾を見ていると、知的好奇心が刺激されてしまうのは仕方のないことで。まさか習性までは、と思ったものの、好奇心に負けてマタタビを用意したのが先刻のこと。
「えっと……」
 ええと、こんなはずじゃなかったんだけどな。
 薄らと頬を薔薇色に染めて、切なそうに眉を寄せられる。とろりとした眠りに誘われる寸前の、どこか焦点の定まらない瞳で、彼女はマタタビを見つめていた。
「それをよこせ」
 いつもより滑舌の悪い言葉。白い指先が、僕の腕に絡みつく。ライトさんは酷く扇情的な仕草で、僕に囁いた。
「ホープ」
 名前を呼ばれる。鼻腔をくすぐったのは花のような匂いだ。ライトさんの頬は薄らと桃色に色づいていて、ふっくらとした柔らかい唇が、僕の名前を形作る。衣装一つで、こんな風になってしまう彼女がなんだか信じられなかった。
「ラ、ライトさん」
 マタタビを持つ僕の手に添えられた指先が、枝に触れる。見たこともないような甘えた仕草で、ライトさんが僕の胸に顔を寄せた。マタタビを手で包み込んで、すり、と顔を擦り付けられる。柔らかい薔薇色の髪が視界いっぱいに広がった。
 ぎゅん、とどことは言わない箇所に血が集まった感覚があった。胸の中では、とろとろとした瞳でマタタビを撫でさすっている彼女がいる。その白い指先や、丸い肩、露出したなだらかな腹を見ていると、触れてもいいかなという気になってしまう。
 今は確かに子供の姿ではあるけれど、中身はこれでも一応、成人男性なのだ。
「ライトさんが悪いんですからね」
 我ながら言い訳じみた言葉を並べて、僕は魅惑のモフモフへと手を伸ばした――。

   * * *

 伸ばしたら、盛大に引っかかれた。
 流石は雷光の異名を持つライトニング。我に返ったライトさんの容赦のない猫パンチを受けて、僕はしゃがみこんだ。正直に言おう、痛い。
「流石はライトさん……」
「流石じゃない! おまえは何をやってるんだっ!」
 真っ赤になってネコミミを逆立たせている。ああ、にゃんこだなあ。モフモフしたいなあ。思わず願望を零すと、なおさら真っ赤になったライトさんが唸り声を上げている。やっぱりにゃんこだ。
「もういい! ノウス=パルトゥスに降りる!」
「待ってくださいライトさん。輝力をユグドラシルに注いでいかないと」
「ああ、くそっ!」
 悪態をつきながらも、律儀なライトさんはユグドラシルに向かって輝力を解放する。やがて光は大樹に吸い込まれていった。目み見えるほど大きくなったつぼみが、ユグドラシルが十分な輝力を蓄えていることを教えてくれる。今回の回収分で、概ね大樹は成長したと言っていいだろう。
「これで世界の寿命がまた伸びました。神の目覚めまでの十三日目まで、頑張りましょう」
「……まったく、その切り替えの早さはどうなんだ」
 立ち上がり、ライトさんを見上げれば、心底脱力したように彼女はそう言った。連動するようにネコミミとしっぽが垂れ下がっているのがまた面白い。
「うーん、じゃあモフモフしてもいいですか?」
「おまえはどうして耳と尻尾に固執するんだ」
「だって動いているのを見たら、やっぱり気になるじゃないですか」
 背伸びをして、そっと揺れ動く耳に囁きかければ、ライトさんは面白いほど俊敏な動きで遠ざかっていった。
「耳元で囁くな!」
 そんな酸欠になった金魚みたいにパクパク喋らなくっても。思わず瞬きをして見つめ返せば、ライトさんは過剰に反応してしまったことに気が付いたのだろう。くすぐったいんだ。咳払いをして、決まり悪そうに言葉を零す。そんな些細な仕草でさえも猫耳尻尾で可愛さ三割増しに見えるのだから、どうしようもない。
「……それは、反則です」
「? 何がだ」
「分からないならいいですよ」
 いつだって僕は、無自覚な彼女に振り回されている。可愛い。愛おしい。そう想う一方で、どこかで空々しく感じてしまうもう一人の自分を見つけてしまう。感情がどこか作り物めいていて、自分のことだと思えないのだ。
「変なやつ」
 ライトさんが目を細めて転送装置に向かう。微かに口元を緩めながらも、ライトさんの視線はどこか遠いところを見ていた。きっと、彼女もまた、僕と同じなのだろう。
 いびつに欠けてしまったはずの心。僕も、ライトさんも神の計らいによって、それぞれ何かを失くてしまった。だから僕らの距離は、近いようで遠い。……それでも。
「またマタタビ用意しておきますね」
「いらない」
「結構、夢中だったと思うんですけど」
 そう言うと、ライトさんはバツが悪そうにそっぽを向いた。口下手な彼女らしい誤魔化し方に思わず笑みが溢れてしまう。

 旅人が疲れを取り、また旅に出かけることができるようになったというマタタビ。僕が、彼女にとってそういう存在になれていたら。そう、願わずにはいられない。
「いってらっしゃい」
 歪に欠けてしまった心という感情。穴を埋めるように、かつての行動をなぞってみるものの、どこかが他人事になってしまった僕にとって、ライトさんは一筋の希望だ。
「ああ、行ってくるよ」
 消えていった転送装置の光の余韻に背を向けて、マタタビを持ち上げる。視線を奥に向ければ、そこには大きなつぼみを付けるユグドラシルの大樹があった。
 すべてが終わる時、例え生まれ変わることを許されなくても。心も、体も、全部失われてしまっても。それでも、今、あなたと共にいられるなら。
 僕は、幸せなのかもしれない。
 ぽつんと零した言葉は、誰にも受け取られることなく、箱舟の中に消えていった。
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