2016.04.02 執筆
2018.03.03 公開

ありふれた日常の話

 久方ぶりになんの予定も入っていない休日だった。こんな日はいつぶりだろう。そう考えてから、苦笑する。以前の休日を思案しなければ思い出せないほど仕事人間になっている自分は、かつて嫌悪していた父そのものだったからだ。「たまには休め」ずっとそう言い続けているパートナーには心配ばかりかけてしまっている。きっと母もこんな気持ちだったのではないだろうか。ダメだなあ、これじゃあ。昨日だってベッドにたどり着いた頃には、泥のような眠りに入ってしまった。分かっているのに、簡単には正せないほど仕事に日々を忙殺されている自分にほとほと呆れてしまう。
「ホープ、起きたか」
 扉の向こう側から顔を覗かせたのは、薔薇色の髪を持った妻だった。
「うん、起きた」
「朝食が出来ている。食べよう」
「ありがとう、ライト」
 立ち上がり、妻にほほ笑みかける。昨日も遅かったな。心配そうなアイスブルーの瞳に「今日は休みだから」と告げると、彼女はほっとしたように安堵の息を吐いた。
「全くお前は無茶しすぎるんだ」
 今まで何度となく夫婦喧嘩してきた内容でもある。
 食卓に並んだグリーンサラダをフォークでつつきながら、彼女は呆れたように溜息を吐いた。
「とりあえずは、昨日でひと段落したから。暫くは落ち着いてるはずだよ」
「とか言っていてもすぐにまた忙しくなるさ。まったく、おまえときたら放っていたらすぐこれだ」
「……ごめんね。でも、これは僕にしかできないことだから」
「分かっている。そんなお前を支えるために傍にいると決めたのは私だからな」
 困ったように微笑まれてしまう。二人で過ごすようになってから見るようになったライトの柔らかい表情だ。ふと垣間見せるその顔に、いつだってドキリとしてしまうのだから、僕はずいぶんと彼女に惚れ込んでいるのだろう。……いや、そんなことはずっと前から分かっていた。生まれ変わるずっと前から。
 食べかけだったトーストの最後の一口を飲み込んで、僕は口を開いた。
「今日は一緒にいるから」
「……言ったな?」
「ええ、言いました」
 かつてのように敬語を織り混ぜて話してみれば、あの頃と同じようにライトは挑戦的に見上げてくる。
「どう料理してくれようか」
「ふふ、楽しみだなあ」
 立ち上がり、彼女の傍へと歩み寄る。薔薇色の髪を掬い上げて口づけを落とした。くすぐったそうに身をよじる彼女を追いかけるように、そのまま耳たぶに、頬にと口づけを落とす。
「おい」
「いいじゃないですか、休みなんだから」
「良くない。せめて食卓にあるものくらいは片付けろ」
 そう言った彼女が、コーヒーの入ったマグカップを押し付けてくる。確かに焦らなくても、今日一日はオフなのだから、食事を片付けてから彼女を楽しんでもいいだろう。そう思いながら、マグカップを手にして、僕はそれが甘い香りをしていることに初めて気がついた。
「ホットチョコレート?」
「今日はホワイトデーだろう。バレンタインは渡しそこなったからな」
 おまえが仕事で。恨めしそうな視線に思わずごめんなさいと零す。そう言えばすっかり忘れていた。今更ながらに彼女の好意を無下にしていたことを反省する。
「じゃあ、今日はその分たくさんライトを可愛がらなくっちゃ」
「本当におまえは口の減らないやつだな」
「でも、そんな僕を選んでくれた」
「分かっている。自分でも呆れてしまうけどな」
 彼女の頬に手を伸ばす。――訂正。やっぱり、待ちきれそうにない。
 カカオのほんのり甘みのある香りに目を閉じて、僕は彼女の唇に口付けた。
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