2017.02.01 執筆

甘い人

 一人暮らしの男性の部屋にしてはいささか厳重すぎるような気さえするカード式の鍵を挟み、ドアノブを捻った。金属製のそれなりの重みのある扉を力を込めて開ければ、広い玄関が突然の来訪者を出迎えてくれる。とは言え、まもなく十一時を迎えようと言うのに、外の明るさに反して部屋の中は薄暗かった。
「ホープ?」
 おそるおそる家主の名を呼んでみる。時間が取れたので、居てもたってもいれず、アポなしでやってきてしまった。確か彼は今日休みだと聞いていたはずなのだけれど、入れ違いになってしまっただろうか。
 浮き足立った気持ちが分かりやすく萎んでいくのが分かる。研究で多忙な彼のことだ。やはり急に押しかけても、入れ違いになってしまうだけなのだろう。そのまま部屋の扉を閉め直そうとして、いや、と思い直した。せっかく合鍵まで預けてもらったのだから、少しくらい部屋に入ったってバチは当たらないだろう。
 滑り込むようにして扉の隙間を通り抜け、音を立てぬように扉を閉める。彼はいつでも来て構わないとは言ってくれたけれども、やはり後ろめたさは隠せなかった。普段は会えない彼の日常を見てみたいという好奇心が抑えられなかったこともある。あまり褒められた行動ではないだろうと自覚しながら、エクレールはなんとなく忍び足になってリビングに入っていった。
 相変わらずのモデルルームのような部屋だった。広くて、きちんと整頓されていて、恐ろしい程生活感がない。これほど立派な自宅を持ちながら、帰ってきてもただ眠るためだけにしか使われていないことが、よく分かる。思わず嘆息したエクレールの視界にふと青緑色の細長いものが映ったような気がした。何の気なしに見直して、それが無地のネクタイだと言うことに気がつく。
「なぜネクタイがこんなところに?」
 とりあえず拾ったネクタイはソファにかけておく。今度はネクタイが落ちていた場所からそう遠くないところに、クシャクシャに丸められたシャツが落ちていることに気がついた。物のない殺風景な部屋だからこそ、それらは否が応でも目についてしまう。
 次はベルト、その次は靴。それから靴下。そこまでたどり着いて、エクレールは目の前のこんもりと盛り上がったベッドにたどり着いた。
 ベッドの上には肌色のものが丸まっていて、すうすうと規則正しく寝息を立てている。今更疑いようもなく、その肌色のものはこの家の主であるホープ・エストハイムその人の姿だった。
「……着ているものをとりあえず脱いで、そのままベッドに入ったというところか」
 ズボンだけでも身につけているのが不幸中の幸いか。それにしたって温かい季節になってきてはいるものの、上半身裸で眠って寒くないのだろうか。いや、それよりも着ているものを満足に片付けられないまま布団に突っ伏している状況を問題視すべきか――。呆れるエクレールを他所に、寝息を立てている青年の寝顔はあどけない。
 こうして見ていると、本当にすっかり大きくなってしまったものだ。耳にかかる柔らかな銀髪も、瞼を縁取る長いまつ毛も、遠い記憶の中の姿とそう変わりはしないはずなのに、上下に揺れる胸の広さや、浮き出る鎖骨に大人の男性を感じてしまう。あの腕に抱きしめられて、顔を寄せて。耳を甘く噛まれたなら。そこまで考えてしまって、はっと首を振る。私は一体何を考えているんだ。
 思わず頬を両手で抑えて、エクレールは小さく頭を振った。とにかく、ホープが風邪をひかない様にしなくては。いや、それよりももう昼時なんだから起こした方がいいのだろうか。自分で生み出した妄想を振り払うのでいっぱいになっていたせいだろう。伸びてきた腕に気が付くのが遅くなってしまった。
「あ」
 そのまま抱き寄せられて、目の前が肌色になった。呆気にとられているうちに抱きすくめられていて、うまく身動きをとることが叶わない。
「おいっ、ホープ」
「んー」
「んーじゃない! 起きろ」
「まだ起きません……」
「起きてるじゃないか!」
 慌てて抗議の声を上げてみるものの、頭の上に降ってくるのはむにゃむにゃと煮え切らない答えだ。
「エクレールさんあったかい」
「私で暖を取るんじゃない!」
 顔のすぐそばに、ホープの裸の胸がある。男のくせにしっとりとしていて、滑らかな肌触りだった。その感触に触れていると、いつかに行われた情事がフラッシュバックして、思わず真っ赤になってしまう。
「は、な、せ」
「い、や、で、す」
 だってせっかくエクレールさんが夢に出てきてくれたのに。ここで離しちゃうなんて勿体ないです。ホープは全くわけのわからないことを言い出す始末だ。
「夢ではなくて、あいにく実物だ」
 あったかいと言ったのはおまえだろうが。そう続けてみせれば、そう言えば。と、とぼけたことを言い出すのだから、目の前の男がどれほど寝ぼけていたのかよく分かる。
「仕事が大変なのも分かるが、あまり無理をしすぎないでくれ」
 思わずため息を吐いて見上げれば、ようやく焦点が定まったようにエメラルドグリーンの瞳が見下ろして。それから信じられないように言葉を紡いだ。
「……本当にエクレールさん?」
「私以外に何に見えるんだ。目が覚めたなら離してくれ。もう昼だぞ」
「本物だ」
 今のやり取りでようやく目が覚めたらしい。ぱちくりとエメラルドグリーンの双眸を大きく見開いて、それからホープはぎゅうっとエクレールの背中を抱きしめた。
「お、おいっ!」
 滑らかな素肌を押し付けられて慌てる私を他所に、ホープの顔はなんだか幸せそうだ。ふにゃふにゃとだらしなく目元を緩めて見下ろしてくる。
「せっかくエクレールさんを捕まえたのに、今更逃すわけないでしょう」
「逃げるもなにも私は……」
 と、そこまで言いかけて腿のあたりに何やら硬い感触が当たっていることに気がついた。
「…………おい」
 思わず半眼になったエクレールのことなどどこ吹く風といったように、ホープはわざとらしく耳に息を吹きかけた。そうして、いつもより少し低めの口調で、まるで何かを連想させるように語りかけるのだ。
「エクレール」
 直に耳殻を震わせられるとたまらない。柔らかいアルトの声音に、波が寄せるように頬に熱が集まっていく。思わず硬直するエクレールの耳にそっと唇を寄せて、ホープは楽しげに続けてみせた。
「せっかくの休日ですからね」
「……休日をベッドの中で棒に振る気か」
「だらだら寝て過ごすのも休日の楽しみの一つでしょう?」
 おまえがそういう柄か。続けかけたエクレールの言葉は降ってきた唇で塞がれる。
「……しょうがないやつだな」
 結局のところ、エクレールもまた彼のことを甘やかしてしまうのだ。柔らかい銀色の髪に手を差し込んで引き寄せれば、昔と変わらないエメラルドグリーンの双眸が嬉しそうに細められた。
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