2019.07.07 公開

#14

 真紅のマントが、風を孕んでばさりと大きく揺れる。
 視界の端で髪が流されていくのが分かった。手櫛でいつもの定位置である肩口へと髪を戻す。髪はそれでなんとかなるが、それ以外はやはりばさばさと揺れる。やはりこの場所は風が強いな。そんなことを思いながら、私は顔を上げた。
 抜ける様に真っ青な空がどこまでも広がっている。故郷の空とはまた違う、くっきりとした青だ。豊かな色彩に恵まれる大地を包み込むように青い地平線がどこまでも広がっている。
 その中で、クリスタルに支えられた巨大な繭がひときわ大きな存在感を放っていた。太陽の光を受けて輝くそれはとても美しく、どこか神々しささえある。
 広い世界を一望できる高台の上には、先客が一人、背中を向けて立っていた。その人は、私よりも一回り近く背の低い少年だった。鮮やかな黄色のジャケットに濃い緑色のズボンを穿いている。ポケットの先からひらひらと伸びる緑色の飾り紐が風に吹かれて揺れていた。
 私は唇を開いた。少年が振り返る。プラチナブロンドの髪が太陽の光に透けて輝くのが分かる。
「ライトニングさん」
 少年は私のことをそう呼んだ。そうして、目を細めて笑ってみせる。
「――許されると思っているんですか?」
 ぞわりと肌が粟立つのが分かる。私は声を出そうとした。だけど、今度はうまくいかなかった。まるで泥を飲み込んだみたいで、口を開いても開いても、声を発することが出来ない。
「あなたのしたことは紛れもなく罪です。弱い立場の者を守るべき人間が行うことではなかった」
 異常な行動です。蔑むような冷たい眼差しを向けられて、足元が急に頼りなく崩れ落ちていく感覚がある。
 待ってくれ。違うんだ。そう弁明したいのに、反論できる根拠らしい根拠を口にできず、ただ立ち尽くすことしか出来ない。せめて手を伸ばそうとするけれど、プラチナブロンドの髪を持った少年は私の腕を振り払った。それだけで力が抜けて、私はへなへなと地面の上にへたり込んでしまう。
「触らないでください」
 そんな風に思っていたなんて、知らなかったんだ。私はただ、大切だった。気が付いた時にはそうしていたいと思っていた。他の誰が言おうと関係ない。そう分かって選び取ったはずだったのに。
「気持ち悪い」
 蔑むその瞳が、まるで鋭い刃となって私の胸を穿つ。
(……ああ)
 何も間違いなどなかったはずだった。だけど、たった一つ悔やむことがあるとするならば。
「すまない……ホープ」
 暗い崖の中へと吸い込まれるようにして落ちていく。真っ逆さまに、くるくると。

   * * *

「……っ!」
 ほとんど吹き飛ばすような勢いで毛布を跳ねのけてから、今しがた見たものが夢であったことにエクレールは気が付いた。すぐ隣では、モグがクポクポと寝言を口にしながら鼻提灯を浮かべている。いつもの変わらぬ光景にほっと胸を撫で下ろしてから、エクレールは顔を上げた。
(またこの夢だわ)
 これで三日連続となる。しかも、内容は日に日に悪くなっているのは気のせいではないだろう。浅い眠りのせいで鈍く痛む頭を押さえながら、エクレールは夢の中に現れたプラチナブロンドの髪を持った少年の姿を思い出す。
(ホープに似ていたのは気のせいじゃないわよね)
 今の彼の姿よりも明らかに幼かったものの、顔の造りはよく似ていたように思う。何より夢が途切れる直前、彼女はホープの名前を口にしていた。
「一体、どういう意味があるのかしら……」
 誰に聞かすわけでもない言葉が、一人きりの部屋の中にぽつねんと響く。夢の中の彼女が見た光景をエクレールは知らない。何より今のホープの姿しか知らないエクレールが幼い彼の姿なんて知る由もない話だ。ということは、必然的にあの光景はエクレールではない……かつてのライトニングを元にしたものだということが考えられる。
「夢だから、それが本当にあったことなのかは分からないわよね……」
 とは言え、三日も続いて同じ夢を見ているというのは流石におかしいというのは自分でも分かる。さらに言えば、この夢を見始めたのはエクレールがホープと出会ってからだ。最初は少年が現れるだけ。胸騒ぎがするだけ。少しずつ場面は動いて、いよいよ夢の中の少年は彼女のことを否定し始めた。これでホープが無関係であると考える方が不自然だ。
「もしかして、私が記憶を失くしてしまったことと関係があるのかしら」
 夢の中の彼女……ライトニングは何かを悔やんでいた。間違いはなかったと自らに言い聞かせながらも、彼女が何かに悩んでいたということは間違いない。目が醒めた時にはすべての記憶を忘れてしまったエクレール。かつてライトニングだった頃のことを思い出すことができない理由が、そこに隠されているかもしれない。
(私は……ライトニングだった頃の記憶を取り戻したいのかしら)
 そこまで考えて、エクレールは自問自答する。数日前、ホープはエクレールに対して同じような問いかけをした。ライトさんだった頃の記憶を取り戻したいとは思わないんですか、と。
 かつてエクレールとホープはつがいの関係にあったという。だとしたら、彼がエクレールにライトニングだった頃の記憶を取り戻して欲しいと思うのは、ごく自然なことだろう。二人の関係が親密だったのならば、なおさらのことだ。
 そんな彼に対して、エクレールは口にした。ライトニングの思考が私と重なることはないような気がするの。近くて遠い他人……そんな感じがするって言ったらいいかしら、と。
 今でも思う。ライトニングとエクレールは似ているようで、何かが決定的に違う。それが何であったのかは分からないのだが、直感的に感じているのだ。今の自分と過去の自分は、あまりにも違いすぎるのだと。
 分からない。思い出せない。そう自分に言い聞かせながらも、エクレールは薄々気が付き始めている。……もはや自分はライトニングには戻れない。
 もっとはっきりと言おう。エクレールはライトニングに戻りたくないのだ。失ってしまった何かを取り戻すことで、今の自分が壊れてしまうのが恐ろしいのだ。
 世界を知りたくて飛び出したと言うのに、かつての自分のことを否定しようとする己の矛盾を抱きつぶすかのように、エクレールは腕を掻き抱いた。
 ライトニングは何かを悔やんでいた。ホープへの想いを抱きながら、最後の瞬間、許しを請う声を上げていたのだ。ライトニングが何らかの罪を犯し、ホープに対して後ろめたく思っていたとも考えられる。それをホープ自身が知っていたのかと思うと、なんとなく知らないのではないかという気がしていた。
 だってホープはあんなにもエクレールとの再会を喜んでいた。小さなモーグリのように震えていた背中を思い出す。生きてくれているだけでいい。そう口にして安堵の息を吐いた彼は、紛れもなくエクレールの無事を喜んでくれていたはずなのだ。
 この三日間、信じられないほどエクレールの毎日は光り輝いていた。モーグリの里の生活が悪かったとはけして思わない。それでも、飛び出した世界でエクレールはホープと出会った。魔物から救ってくれた。肉が美味しいものであると教えてくれた。ナイフの握り方や戦いの手ほどき。チョコボに乗った。大きな湖を見た。傍に居てくれることが嬉しいと思った。
 そしてエクレールは恋を知った。まるでそうなることが必然であったかのように、エクレールはホープに惹かれていったのだ。
 たった三日間という僅かな時間でしかない。それでも、エクレールにとってこの三日間は宝物のような時間だった。自分でも何だか信じられないのだが、ホープと過ごす時間が、いつの間にかこんなにも大切になっていたのだ。
 かつてエクレールはライトニングだった。過去の彼女も、きっとホープのことが大好きだったに違いない。エクレールは確信を持ってそう思うことが出来る。
 丁寧で優しくて、逞しいのにどこか抜けているようなところもあって。彼が目を細めて笑ってくれるのが好きだ。ずっとこの時間が続いてくれたらいいのにとさえ思う。
 ライトニングはいなくなってしまった。だけど、ホープはエクレールのことをつがいと思ってくれた。彼もまたエクレールのことを特別な相手であると望んでくれたというのなら、いっそ過去は全部忘れてしまったまま、これからの未来に目を向けるべきではないのだろうか。
 何より、ライトニングだった頃を思い出してしまうことで、今のエクレールという人格が今後どうなってしまうのかと考えると恐ろしかった。
 今のエクレールはエクレールだけのものだ。ホープのことを大切に想っていることを、彼からの愛情を受けることを、過去の自分でさえ譲り渡すことは我慢できそうになかったのだ。
 今のこの幸せを壊したくない。ホープのことを後ろめたくなんて思いたくない。
 雑念を振り払うようにエクレールは立ち上がった。大切なものを大好きなまま、自分の中に留めておきたいと願うことは、いけないことなのだろうか? 緩慢な動きで、夜着からいつもの服を手に取った。昨日の晩に早めに洗濯をしていた服は、乾燥していたためかもうすっかりと乾いている。その頃には大きな鼻提灯を付けていたモグもようやく目が醒めたようだった。
 服へ袖を通して、エクレールが髪を整え終わった頃、部屋に控えめなノック音が響く。続けて「僕です」と聞き慣れた声が聞こえた。
「今後のことを少し話したいのですが……身支度はどうですか?」
「もう大丈夫よ」
 昨晩教えて貰った方法で扉のロックを解除すれば、いつもの格好のホープが現れる。黄色と白を基調とした金具の多いジャケットも、プラチナブロンドの髪も、その下から覗くエメラルドグリーンの瞳も、エクレールがよく知っているホープだ。夢の中で出会った少年より、彼はずっと大人の姿になっている。
「どうかしましたか?」
 じっと見つめらていることに気が付いたのだろう。ホープはそう口にしてから、少しだけ悪戯っ子のように目を細めてみせた。
「僕に見惚れていました? ……なーんて」
「もうっ、違うわよ!」
 冗談めかして口にするホープに、エクレールは慌てて抗議の声を上げた。そんな二人のやりとりを前に、モグは「仲良しクポ~」とのほほんとしたものだ。
 エクレールに宛がわれた部屋の中には簡素ながらもテーブルとチェアが備え付けられている。その一つに腰掛けたホープと向かい合わせになる様にして、エクレールもまたベッドに腰掛けた。
「冗談はさておき、これからのネオ・ボーダムへの道のりについて話しておきますね」
 まず八層目の封鎖ですが、先ほど確認したところまだ解除されていません。いつ作業が完了するのかという目処も見えていないそうです。ホープは淀みなく言葉を続けていく。
「渓谷を超えるにはこのテージンタワーを渡るか、大きく迂回路を取って回るかの二つになります」
「迂回路を使うとどのくらいかかるのかしら?」
「迂回路を取った場合は、チョコボの足を使っても三日はかかります。ちなみに、テージンタワーから渡れば、ヲルバ経由でネオ・ボーダムには一日で辿り着くことが出来ますね」
「クポ~、結構かかるクポ。ホープとエクレールも空が飛べたら良かったクポ」
「こればっかりは仕方ないわね」
 モグのポンポンを突きながら、エクレールは苦笑を零す。里にいる時は、エクレールだけ羽もポンポンもないことを気にしたものだが、今ではだいぶ気にならなくなった。これも、ホープと出会ってからのエクレールの変化と言っていいだろう。
「八層目の復旧を待ってテージンタワー越えを選ぶか、三日かけてネオ・ボーダムまで確実に進むか……ってことよね」
「そういうことになります」
 エクレールの言葉に、ホープがこくりと頷いてみせる。正直なところ、エクレールとしてはどちらの選択肢でも良かった。むしろ、今となってはネオ・ボーダムに向かうという目的自体に消極的になりつつあると言ってもいい。ネオ・ボーダムはかつてのライトニングにとって縁のある土地らしいのだから。
「ねえ、ホープ。私たちはネオ・ボーダムのことを知らないのだけど、私にとって縁のある土地っていうのはどういうことなのかしら?」
 当初パドラに向かおうとしていたエクレールとモグに、パルスに新しくできた港町であるネオ・ボーダムを勧めたのは他でもないホープだ。彼はそこに、当初一人で向かおうとしていた。その道中にエクレールたちと会ったと言うのだ。
 改めて質問をするエクレールの意図を噛みしめるかのように、ホープは唇に手を当てた。やがて彼はゆっくりと唇を開く。
「エクレールさんが記憶を失くす前は、コクーンに住んでいたという話は以前しましたよね。エクレールさん……かつてのライトさんは、コクーンのボーダムという臨海都市に住んでいたんです」
「クポ? ボーダムはコクーンにあったのに、ネオ・ボーダムはパルスにあるクポ?」
「疑問はもっともですね。実は四年前、コクーンは中核となる動力源を失い、空から堕ちたんです」
 その話は、いばらの外から帰ってきたモーグリたちから聞かされたことがあった。エクレールは頷いて、ホープの言葉に応える。
「聞いたことがあるわ。かつてコクーンは空に浮かんでいた。四年前に突然堕ちてきて、地面に衝突する寸前にクリスタルの柱に支えられたって……」
「モグたちもびっくりしたクポ!」
 エクレールの言葉にモグもまた大きく首を振る。その度にポンポンが揺れるのを見届けて、ホープは「その通りです」くすりと口元を緩めてみせた。
「この一連の騒動には多くのことが関わってきているのですが、今はその話を割愛しましょう。とにかく、四年前にコクーンは堕ちた。クリスタルによって支えられてなんとか全壊は免れたのですが、いくつかの都市は壊滅的な被害を受けたのです」
「もしかして、ボーダムは……?」
 そこまで聞けば、話の筋は読めてくる。答えを暗に示すエクレールを前に、ホープは「ええ」と相槌を打ってみせた。
「ボーダムはとても人が住める状態ではなくなってしまったのです。不幸中の幸いであったのは、壊滅時に瓦礫に潰される人が出なかったことでしょうか。あの時点で、一帯の住民はすべて移動が終わっていましたから」
 無事だった、と口にしながらもホープの表情は複雑なものだった。一言では片づけられないことがそこには詰まっているのだろう。
 その時不意に、脳裏を掠める映像があった。ばらばらと空中分解していくコクーンが見える。その時、空気を震わせるような大きなうねりが起こった。やがてそれらは巨大な柱となってコクーンを支え上げたのだ。
 ただの情景にしてはあまりにもリアルな光景に、エクレールは一瞬眩暈がしそうになったのを寸前で堪えてみせた。今の光景は一体何だったのだろう? まるで自分が自分でなくなったような、知らない映像が流れてくる感覚。思わずぐっと唇を噛みしめる。
「エクレールさん?」
 微かに顔をしかめたエクレールの異変に気が付いたのだろう。問いかけるホープに「何でもないわ」と答えて、エクレールは言葉を続けた。
「いったん整理するわね。かつての私は、コクーンの中にあるボーダムという都市に住んでいた。だけど四年前、コクーンが墜ちるという大きな事件があったのね。その時住んでいた人たちはすでに移動が終わっていたけれど、都市としてのボーダムはなくなってしまった……」
「クポッ!」
 エクレールの言葉に閃いたようにモーグリが飛び上がる。引き継ぐように、エクレールもまた顔を上げた。
「だからパルスにネオ・ボーダムを作った?」
 尋ねる四つの瞳を前に、ホープはまるで教師のように穏やかな笑みを浮かべて唇を開いた。
「その通りです。故郷がなくなってしまったのなら、新しく作ればいい。そう言って、パルスに新しくボーダムを作った人たちがいるんですよ」
「クポ~……。いい言葉クポ」
 ホープの言葉に、モグが感銘を受けたようにうんうんと頷いている。
 故郷を失うという感覚はエクレールにはよく分からない。しかし、モーグリの里に置き換えて想像してみることはできる。例えばある日、里が滅茶苦茶になって、みんなが住めなくなってしまったとしたら。……きっとモーグリたちは悲しむだろう。これからどうすればいいのか途方に暮れてしまうに違いない。しょげかえっているみんなの姿が思い浮かんで、それだけでエクレールの胸は痛くなった。
 想像だけでもこんなに苦しいのだ。現実に故郷を失うというのは、一体どれほどの痛みなのだろうか。
「……すごいわね、その人たちは」
 なくなってしまったのなら、新しく作ればいい。大切なものを失って悲しくない訳がないのに、なんて底抜けに前向きな言葉なのだろう。故郷を失い、傷心の中にあった人たちが立ち上がり、新天地で自分たちの町を作り上げていく。それはエクレールにとって、なんだか途方もない話だった。
「馬鹿だけど、すごい奴なんです」
 口にしたホープは照れ臭そうに、しかしはっきりとそう断言してみせた。いつも礼儀正しい彼が、誰かに対してそういったものの言い方をするのは珍しい。言い方を変えれば、それだけ信用しているとも取れるだろう。
「……その人と仲がいいのね」
 ほとんど確信を持ってエクレールがそう答えると、ホープはこくりと頷いてみせた。
「はい。スノウって言うんですけど、今の僕があるのは彼のおかげでもあるんです」
 そこまで口にして、ホープは悪戯っ子のように「でも、スノウには言わないでくださいね。調子に乗るから」と目を細めてみせた。
 ホープの、エクレール以外にはじめて見せる表情だった。言葉を聞いているだけでも、親しいことが伝わってくる。思わずぎゅっと手のひらに力が籠るのが分かった。
「そのスノウって人はエクレールのことを知っているクポ?」
 ネオ・ボーダムはエクレールにとって縁のある場所なのだとホープは口にした。その意図を読み取ってのモグの言葉に、ホープは頷いて答えてみせる。
「はい。もう少し詳しく言えば、スノウの奥さんがエクレールさんの妹なんです。彼女もまた、ネオ・ボーダムに住んでいます」
「クポッ! エクレールはお姉さんだったクポ!?」
「お二人共、お互いがとても大切な存在なのだということは、傍目から見ていても伝わってくるほどでした。ライトさんは本当にセラさんが一番で――…ライトさん?」
 ホープからすれば、それは何気ない言い間違いだったのかもしれない。
 エクレールはかつてライトニングだった。その事実は揺るがない。ライトニングはホープにとって特別な存在だった。それも変わることのない過去の話だ。
 だけど、ライトニングは。……ライトニングは、エクレールが思い出すことのできない、もはや交わることのないと思っているまったくの別人なのだ。
 スノウなんて知らない。セラなんて知らない。姉妹だったなんて言われても、そんなの分からないし、望んでいない。エクレールが兄妹のように思っているのはモグで、家族はモーグリたちなのだ。
 今更ライトさんなんて呼ばれても、もう帰れない。
 エクレールは立ち上がった。失言に気が付いてしまったのだろう。ホープが「すみません」とすべてを言い終わる前に、踵を返す。
「クポッ! どこに行くクポ!」
 モグの言葉に返事をすることもなく、エクレールは扉を開けると部屋の外へと飛び出した。
 とにかく今は一人きりになりたかった。特別なんだと思っていたホープの見たこともない親しげな表情を突き付けられて、頭の中はぐちゃぐちゃだったのだ。
(やっぱりホープは私がライトニングの記憶を取り戻すことを望んでいるんだわ……)
 どうして今のエクレールを受け入れてもらえると思ってしまったのだろう。最初からホープは、ライトニングのことが大好きだったはずなのに。
 ホープの優しさに、いつの間にかすっかり甘えきっていた自分自身を思い知らされるようで胸が痛い。生きてくれているだけでいい。そう口にしてくれた。確かにエクレールは生きている。だけど、ライトニングが失われてしまっていいとはホープは口にしていない。
(私は……私は……!)
 エクレールを失いたくない。
 記憶を取り戻すということは、きっと今の自分ではいられなくなるということだ。こんなにもホープのことが好きで、モグのことも大切で。モーグリの里のみんなのことを家族みたいに思える、このささやかで平凡なエクレールが失われてしまうということだ。それを望む、望まないにしても、ホープと出会ってしまったことで記憶は着実に何かをこじ開けようとしている。それは例えば夢であったり、ふとしたことで浮かんでくる情景であったり。
 何も知らず、ただ無垢に大好きなものを大好きなままでいては駄目なのだろうか? このままでいたいと望んでしまうことはいけないことなのだろうか?
 エクレールは懸命に足を動かした。宿にしていた施設の入り口を潜り抜けて、人通りのある通りに飛び出す。少し離れたところではホープとモグがエクレールを呼ぶ声が聞こえる。
「っ」
 こんな時、後遺症の残っている足が恨めしい。エクレールは顔をしかめた。このままホープとモグに捕まってしまえば、なぜ逃げたのかと問われてしまうに違いない。今もなおライトニングのことを大切に想っているホープに、忘れたままでいたいのだとそんな酷なことを告げる勇気は持てなかった。
 出会った時の言葉とは、もはやそれは意味が変質している。エクレールはホープのことが大切だ。大好きだ。だからこそ、彼のことを純粋に好きでいられるこのままでいたい。
 夢の中で落ちていったライトニングは、何かを悔やんでいた。ホープのことを後ろめたく思っている記憶なんて、ライトニングなんて……エクレールには必要ない。
 だから、スノウなんて知らなくていい。セラなんてどうでもいい。
 ホープがいて、モグがいて、エクレールがそこにいる。今のこの関係が続けばいいと思っているのに、その願いと矛盾する行動を取ろうとするエクレールはもはや滅茶苦茶だった。
 視界がぼやける。目の奥が熱い。ホープもモグのことも大好きなのに、一体自分は何をしているのだろう。それでももつれそうになる足を必死で前に出してエクレールは進む。
「止まるクポ~ッ!」
 宙を飛べるモグには障害物らしい障害物がない。エクレールに向かって、モグの声が次第に迫ってくるのが分かる。
 エクレールは無我夢中で周囲を見渡した。周囲に人がまったくいない訳ではないが、紛れるにしては少なすぎる。かといってこのまま走り続けたとして、モグに追いつかれしまうのは目に見えている。激しい運動をすると途端に足に負担がかかるエクレールには、そもそも不利な話なのだ。
「こっちです」
 不意に差し伸べられた手のひらがあった。釣られるようにして視線を移せば、どこかで顔を見かけたことのある青年がエクレールを呼んでいる。一瞬だけ躊躇ったものの、モグの声がいよいよ近づいていることに気が付いて、ぐずぐずしている場合ではないことを理解する。
 エクレールはその手を取った。
 そう認識するや否や、柱と柱の隙間に滑り込むようにして引っ張られる。まもなく角を曲がってきたモグがエクレールを追い越して先に進んで行くのが分かった。
 息を潜めてじっと待つ。モグの声が遠ざかっていく。やがて静寂が訪れて、そこでようやくエクレールは一息を付いた。
「……これで良かったのですか?」
「ええ、助かったわ。ありがとう」
 感謝を述べてエクレールは顔を上げた。そうすると、手を伸ばしてくれた相手の灰色の瞳と目線が合った。
「あなたは……」
「また会いましたね」
 中性的な整った顔立ちに、プラチナブロンドの髪色が印象的だ。昨日エクレールが失くしてしまったリングを見つけてくれた恩人でもある青年が、隙間の間から姿を現した。
「えっと、お名前は……」
 一度ならず二度も助けられたにもかかわらず、そう言えば相手の名前さえ知らない。眉根を寄せたエクレールを前に、青年は目を細めて微笑んでみせた。
「申し遅れました。僕のことはフレッドとでも呼んでください」
「分かったわ。私はエクレールよ」
 差し出された手のひらに応える様にしてエクレールも握り返す。そんなエクレールの返答を予想していたように、フレッドは相好を崩してみせた。
「ふふ、知っていますよ」
「えっ?」
「ご存じないかもしれませんが、昨日テージンタワーにいらしたあなたがたは、結構噂になっているんです」
 思わず目を丸くするエクレールを前に、フレッドは「おとぎ話の存在だと思われていた精霊モーグリを連れてきた人が現れたのですから」とどこかおどけた調子で口にしてみせる。そうして彼は、灰色の視線を向けて言葉を続けた。
「どうやら訳ありのようですね。これも何かのご縁とは思いますし、少し話でもしていきませんか?」
 案外、誰かに話してみた方が整理できたりするものですから。柔和な落ち着きのある声が、エクレールの背中を押す。
 フレッドに促されるまま、エクレールは自然と首を縦に振っていたのだった。
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