2019.07.07 公開

#13

 アルカキルティ大平原にも深い崖があったものだが、訪れた渓谷はそれよりもさらに深く、大きかった。とてもではないけれど、先へは渡ることはできないのではないだろうか。断崖絶壁に慄きながら道を進んで行くと、やがて渓谷を跨ぐ巨大な橋のように折れ曲がっている塔へと出会うだろう。
 テージンタワー。かつてパルスの人々がそう呼んだ塔は、時を経て今なおパルスの大地に佇んでいる。
「すごい……」
「この塔を進めば、向こう側に渡ることできます。その先にヲルバ郷……そして、目的地であるネオ・ボーダムがあります」
 そびえ立つ巨大な塔は、例えそれが折れ曲がっていたとしても、エクレールにとっては圧巻の光景だった。大きな夜光キノコが育つと大喜びしていたモーグリの里での生活を思い出せば、何もかものスケールが違いすぎる。
「あそこにいるのって……もしかして、人間クポ?」
「ええ。ここはアカデミーの人間が出入りしていますからね。色んな人がいると思っていいですよ」
「うわあ……」
 重機を使って資材を運んでいる男性もいれば、図面を広げながら頭を突き合わせている女性もいる。家族で滞在しているのか、少し離れたところには子供が土遊びをしているのも見てとれた。ポーションなどのアイテムを露天に並べている人や、その前で物色している人もいる。談笑する人。塔の上の方から階下を眺めている人。もちろん、これから外へ出て行こうとしている人の姿だってある。
 テージンタワーに近づけば近づくほど、あたりの様子がよく分かるようになってくる。その度にエクレールとモグは目を丸くして顔を見合わせたのだった。
「見ない顔だね。お嬢さんは新入りかい?」
 物珍しそうに周囲の様子を眺めているエクレールは、本人に自覚がないだろうが元々人目を惹く容姿をしている。かつての彼女は、人付き合いを積極的にするタイプではないこともあってか、どことなく気難しそうな雰囲気を漂わせていたものなのだが、ホープ以外の人が初めてとなるエクレールは違う。
 アイスブルーの瞳はきらきらとしていて、興奮の為か頬は微かに紅潮している。元々ピンクブロンドの髪は珍しいのだが、その色が腰の長さにまで伸びていれば目に付きやすいものだ。何より整ったその顔立ちがいかにも楽しそうに輝いていれば、自然と近付いてくる人間が現れるものである。
「通りすがりの旅の者です」
 エクレールを前に親しげな表情を浮かべて近寄ってきた中年の男性の前に、体を滑り込ませるようにして返事をしたのはホープだった。
 正確に言えばホープはアカデミーに所属しているのだが、テージンタワーは配属先ではない。有給を使ってパルスに来ているに過ぎないのだが、わざわざそれを伝える義理もない。表面上はにこやかに、しかしはっきりとした物言いをするホープを前に男性は目を丸くしてから、二人を見て納得したように声を上げた。
「何だい、恋人同士でパルス旅行ってやつか?」
 こんな美人な彼女と一緒だなんて羨ましい。だけど、パルスは魔物も出るから、二人きりはいくらなんでも危ないんじゃないかい?
 そう言葉を続ける男性を前に、ホープは変わらぬにこやかな表情のまま「ご心配なく」と腰の鞘を一瞥する。大抵はこれで通じるものだ。
「クポッ! モグのことも忘れないで欲しいクポ!」
「うわあっ!?」
 そんなやり取りの間に、文字通り割って入ってきたのはモグだった。クポクポとポンポンを揺らしながら、モーグリは一生懸命短い手足を振り上げる。
「モグも一緒に旅してるクポ! 仲間外れは寂しいクポ~」
「しゃ……喋ってる……。こいつは一体……?」
 驚く男性の声に、周囲の人々も宙に浮いているモグの存在に気が付いたのか、どよどよとざわめきがさざ波のように広がっていく。未知の生物に関心を向ける反面、警戒をしているともとれる反応だ。こうなることがあらかじめ読めていたので、ホープはそれとなくモグとテージンタワーの外で落ち合うことを提案したのだが、エクレールもモグも断固として譲らなかったのだ。
「モグはモーグリのモグクポ!」
 バックミュージックがあれば、それに合わせてキメポーズが決まっていたことだろう。そんな風に思えてしまうほどに、モーグリの描いた『かっこいいポーズ』は理想的な形で披露された。とは言え手足が短いので、本人曰く『かっこいいポーズ』もエクレールに言わせてみれば「可愛い」とのことだったけれど。
「モーグリって精霊のモーグリ?」
 興味津々といった体で一番最初に反応したのは、先ほどまで土遊びをしていた少年だった。
「クッポポ~! その通りクポ!」
 コクーンではおとぎ話の中で度々目にする名前だ。それこそ黙示戦争時代から古く残っている、言い伝えに近い類のもの。その中でモーグリは、空を飛び、不思議なおまじないを授けてくれる小さな生き物として伝えられている。子供だましの空想の生き物かと思われていたものなのだが、あながちその伝承は間違っていなかったということになる。
「うわ~、なんか変なの!」
「変とはなにクポー! モグは由緒あるモーグリクポ! ぷんぷんクポ!」
 けらけらと笑う子供の姿に、モーグリが心外だと言わんばかりに短い手足を振り上げる。本人的には怒っているのだろうが、如何せんサイズが小さいことと、モグ自身が元来陽気な性格ということもあってか、迫力としてはいまいちだ。
 案の定子供は「全然怖くないや!」と指差している。むきになったモグは一生懸命両手を振り上げているが、本人の努力は他所に、どう見てもじゃれ合っているようにしか見えない。
「喋るチョコボみたいなものか」
「へえ、俺はじめて見た」
「ママー! あれ買って!」
 遠巻きにモーグリを見ていた人々も、モグが害のない生き物だということが分かったのだろう。人だかりがごく自然な形でばらけていくのを見送りながら、ホープはふうと息を吐いた。
「大事にならなくて良かったです」
「ふふ、モグはあの性格だからきっと大丈夫だって言ったじゃない」
「それでも、人は未知のものに遭遇することを怖がったりするものですから」
 知っている物に対してなら寛容になれますが、そうでないものには残酷になることもあるんです。騒ぎを起こすことは僕らの本意ではありませんから。
 そう続けるホープの言葉に、エクレールは小首を傾げてみせた。
「そういうものかしら」
「未知の世界に飛び出そうとしたエクレールさんには想像付かないかもしれませんが、そういう保守的な考えを持った人の方が大多数なんです。とは言えここはアカデミーの関連施設で、なおかつパルスにまで降りてくる人たちが住んでいる場所ですから、あまり心配する必要はなかったのかもしれませんが」
「……人って難しいわ」
 眉根を寄せるエクレールを前に、ホープは零すように告げる。
「人間はモグやエクレールさんのように誰しもが素直というわけではありません。人のいい笑顔の下で息を吐くように嘘をつくような輩もいますから」
「そんな人もいるの?」
「ええ。だからエクレールさんは気を付けてくださいね」
 そう口にして、ホープはにこりと柔和に微笑んでみせる。そんな彼の言葉に「なるほど」とエクレールは頷いた。
 やっぱりホープは頼りになる。予め危険や混乱が起きないように、きちんとエクレールたちに教えてくれるからだ。何もかもを警戒するということは難しくとも、彼の言葉通り周囲を気にした方がいいだろう。そう納得して、エクレールはホープと共にテージンタワーに向かって歩いて行った。
「クポ~、クタクタクポ……」
「どこへ行っても人だらけだものね」
 建物の中に入ってもモグは注目の的となった。珍しい生き物が多いパルスではあるが、人語を介する生き物はほとんど存在しない。小さなマスコット的な風貌も相まってか、モグに飛んでくる視線は物珍しいといった類のものがほとんどではあったものの、自然とその流れでエクレールやホープに話しかけてくる人は多い。注目されることに慣れていないモグとエクレールにとっては気疲れしてしまうのだろう。
「今からでも外に出ます?」
「ちょっと休憩したら大丈夫クポ~」
「慣れるまでは仕方がないわね」
 大変ですか? と尋ねるホープを前に、エクレールはふるりと首を振る。
「確かにびっくりはしたけれど、楽しいわ。こんな風にたくさん話しかけてもらえることって初めてだもの。それに、色んなものを貰えちゃったし……」
 他所から来たと話したら、これをどうぞとあれこれアイテムを渡されていくのである。気が付けば、回復薬の類は買い物するまでもなく十分な数が揃っていた。
「親切な人が多いのね」
 ほくほくと荷袋を見下ろしているエクレールとは対照的に、ホープの方は微妙な顔つきをしている。
「……下心があるとしか思えませんけどね」
「え?」
「何でもないですよ」
 さらりとそう口にして、ホープはショップに移動しましょう。と言葉を続けた。
 テージンタワーは文字通り塔の名を冠しているだけあって、一層、二層、三層……といったように円状の階層が八階層に渡って続いている。その地点がちょうど塔の折り返し地点になっていて、後は反対側の塔に続いているのだ。
 人がいなくなってから久しく、かつての信仰の対象となっていた巨象が残されているだけで、ほんの数年前まではファルシ=ダハーカの縄張りとなっていたようだ。しかし、それも昔の話で、パルスの拠点としてアカデミーの手が入るようになったテージンタワーは、一階層目には飲食店が立ち並び、二階層目には武器や防具、その他素材を並べた商業区となっている。
 三層目以降は居住区で、こちらはまだ完全に工事が終わっていないのか、ところどころにシートがかけられている状況だ。とは言え、すでにこのテージンタワーに多くの人が住んでいるというのは揺るぎがない事実だろう。
「回復薬はもういいと思いますが、携帯食の方はもうあまり数がありませんから補給が必要ですね」
「携帯食って、あのもそもそした食べ物?」
「あはは。エクレールさんはお気に召さなかったみたいですけど、あれはあれで日持ちがするので、旅にはうってつけなんですよ」
 基本的には魔物を狩ったり、食べられる木の実や植物を収穫してここ二日を過ごしていたものの、どうしても食料が見つからないタイミングがあったのだ。その時、ホープがエクレールに渡したものが、スティック状の携帯食料だった。
 小麦粉を練り固めて焼き上げたもので、日持ちさせることだけが目的の、味は至って簡素なものである。肉の美味しさに目覚めてしまったエクレールからすれば物足りなかったのだろう。朗らかに笑うホープを前に、エクレールが唇を尖らせる。
「なんだか私が食いしん坊みたいじゃない」
 そこまで食い意地を這っているわけじゃないわ。不満そうな彼女を前に、ホープはくすくすと楽しそうだ。
「そうなんですか? ここは物が多く集まる場所ですから、肉の串焼きなんかよりもずっと美味しいものがあると思いますよ」
「……」
「エクレールさんには是非食べて頂きたいと思っていたのですが。食が細いとなるとそうはいきませんね」
「……ホープが意地悪だわ」
「で、どうするんです?」
 にこにことしているホープが天使の顔をしている悪魔に見える。ぐぐぐっと唇を噛みしめながら、エクレールはプライドと食への飽くなき探求心を天秤に乗せた。そもそも天秤にかけるまでもなく、片側の方が大きいのは言うまでもないだろう。敗北感に打ちひしがれながら、エクレールは言葉を絞り出した。
「……食べます」
「ふふ、僕も楽しみです」
 返し方さえそつがないのだから、本当に困ったものだ。
「さ、行きましょう」
 エクレールさん。名前を呼ばれて、ごく自然に手を握られる。モグともよく手を繋いでいたはずなのに、どうしてなのだろう? ホープと手を繋いでいると、なんだか胸がどきどきとして落ち着かない。これが恋と呼ぶものなのだとホープは教えてくれたけれど。
 エクレールはちらりと上目遣いになってホープを見上げる。そうすれば、視線に気が付いた彼がふんわりと笑い返してくれるのが分かった。
 なんとなく気恥ずかしくなって、顔を伏せる。胸の内がこしょこしょとこそばゆい。言葉にできない何かが込み上げてきて、叫び出したいのに堪えていたい。そういう不思議な心地だった。
「ピピッ……ガッピ!」
「クポ? あれは何クポ?」
 テージンタワーを進んでいたエクレールとホープ、そしてモグは、まもなく人だかりに行きついて顔を見合わせた。一体何があるのだろう。人々の隙間から顔を覗かせると、その先には真紅の筐体に耳のようにも見える出力機を取り付けたロボットが、左へ右へと奇妙な動きで旋回している。
「バクティ!」
 そんなロボットを前に、驚いたように目を丸くしたのはホープだった。
「知っているの?」
 問いかけるエクレールの言葉に、彼は「ええ」と頷いてみせる。
「以前パルスを旅していた時に、ヲルバ郷で仲間が修理をしたロボットなんです。まさかこんなところにいるなんて……」
「クポ? でも、さっきから様子が変クポ」
 モグの言葉はもっともで、くるくると旋回をしていたバクティは、今度は投影機から映像を出力しようとしてカチカチと音を立てている。とは言え、それらの行動に目的らしい目的は感じられず、一体どうして往来の真ん中でこんな挙動をしているのか全くの謎だった。
「あの人が持ち主かしら」
 周囲の様子を伺っていたエクレールが、頭を抱えている髭面の中年男性を見つけて声を上げた。視線をそちらに向ければ、彼はほとほと困り果てたようにバクティを見下ろしている。
「おいおいバクティ、どうしちまったんだよ!」
 どうやら持ち主にとっても予想外の挙動らしい。誰かこいつの様子を見てやれる人はいねえか! すっかり弱り切った声が周囲に響き渡るものの、パルス産の古いロボットとなると、あまりにもコクーンの機械とは勝手が違いすぎる。遠巻きに見ている人たちが誰も動かないことにエクレールは眉根を寄せた。
「困っているのに、誰も助けてあげられないのかしら……」
 何とかしてあげたいものの、生憎エクレールにもロボットの勝手は分からない。何より彼女自身が外の世界のことがよく分かっていないのだ。ほとんど反射的にエクレールはホープへと視線を向けた。その視線の意味に気が付かないホープではない。
「……仕方がないですね。少し様子を見てきますから、それまでここで待っていてください」
 「モグは……」とホープが言葉を続けると、「一緒に行くクポ!」と元気な声が返ってくる。どうやらモグはホープと一緒にバクティの様子を見ておきたいらしい。
「ありがとう、二人共」
 エクレールから満面の笑顔を向けられては敵わない。ホープは苦笑を零すと、今度は狂ったように飛び跳ね始めたバクティと途方に暮れている持ち主の元へと歩いて行った。
 ホープが持ち主に声をかけると、彼が目を輝かせるのが分かる。二言、三言言葉を交わした後、ホープはそのままバクティに手を伸ばすのが分かった。
 多くの人たちが注目している中で何の迷いもなく行動できるホープのことを、エクレールは感嘆の眼差しで見つめていた。きっとエクレールであればこうはいかなかったに違いない。
 ホープのように器用な訳でもない。腕に自信がある訳でもない。勢いだけはあっても実績に結びついていないエクレールとは違って、ホープはあらゆる分野で優秀だった。出会った最初の人間がホープだったため最初こそ実感が薄かったが、こうして色々な人を知った上で彼を見ていると一層そう思う。
(私ってホープに釣り合ってるのかな……)
 つがいが男と女の二人で一組を指す言葉とするならば、エクレールはホープのパートナーとして能力は見合っているのだろうか。ふとそんな風に考えて、漠然と不安になった。ホープは確かにエクレールのことを大切にしてくれる。だけど、エクレールがホープに返せているものなんてほとんど何もないのではないだろうか?
 何だか頼りなくなって、エクレールは胸元に手を当てた。その時、微かな違和感を覚えて視線を下げる。おかしい。いつもなら指先に触れているはずのリングの感触がない。
「え……う、嘘!」
 慌てて視線を下げると、首から垂れ下がっている革紐が途中で切れてしまっている。当然のように、その先に付いていたリングの姿はない。ホープがエクレールに贈ってくれたという、あのリングがなくなってしまったのだ。
 さあっと血の気が引いていくのが分かった。記憶のないエクレールにとって、あれがどういった意図を持って贈られたものなのかということは分からない。それでもきっと、自分にとっては大切なものだったはずなのだ。何よりあのリングには、モーグリの里で暮らした二年の間という思い出も詰まっている。
「探さなきゃ……!」
 どこに落としてしまったのだろう。テージンタワーの内部だろうか。もしかしたら外かもしれない。そうなってくると捜索は絶望的だ。広いパルスの中をどう歩いてきたのかと考えるだけでも眩暈がする。そもそも、最後に触ったのはいつだっけ……?
「すみません」
 動揺していたエクレールは、自分が声をかけられているということに気が付くまで暫くの時間を必要とした。
「えっ、はい。わ、私……?」
「ええ、あなたです」
 振り返った先には、プラチナブロンドの髪に灰色の瞳を持った青年が立っている。
(わあ)
 綺麗な顔の人だ。その言葉は寸前のところで飲み込んだ。
 テージンタワーでは多くの人が出入りをしている。ここへ来るまで、短い間ながら老若男女と実に様々な人に会ったものだが、目の前の青年は見てそうだと分かるほどに整った顔立ちをしていた。どこか線が細く、中性的な雰囲気すらある。
(少し、ホープに似ている気がするわ)
 髪の色が近いからだろうか。瞳の色こそ違うものの、どことなく彼を連想してしまうのは、ホープが判断基準になりつつあるエクレールにとってごく自然なことだった。それを差し引いても、温和そうな落ち着いた物腰がホープに近いような気がするのだ。
「落とし物ですよ」
「落とし物……? あっ!?」
 差し出された手のひらには、エクレールが探していたシルバーのリングが乗っている。ほとんどひったくるような勢いでエクレールはリングに手を伸ばした。念のため、リングの裏側を確認する。
 ホープからエクレールへ。
 彫り込まれている文面は見覚えのあるもので、これがエクレールのものであることは疑いようもない。
「良かった……」
 失くしてしまったかもしれない。そう思った時は、心底血の気が失せた。ゆっくりと肩の力が抜けていくのが分かる。
「ありがとう。あなたのおかげだわ」
 安堵で涙ぐみながらエクレールは顔を上げた。そうすると、彼は「いえ」と謙虚に首を振って答えてみせる。
「たまたま目に付いただけです。……大切なものかとお見受けしましたから」
「ええ、とても大切なものなの。見つけてくれてありがとう」
 何かお礼ができるかしら。そう口にしたエクレールを前に、青年は再び首を振る。
「お気になさらず。あなたの手元に無事戻ってきて良かったですね」
 それだけ口にして、青年は踵を返す。その後ろ姿を見送っていると「エクレールさん?」と聞き慣れた声が聞こえた。
「二人共……」
 ホープとモーグリの姿がそこにある。エクレールが指輪を失くしてしまっている間に、すっかりバクティの件は片付いてしまったらしい。視線を向けると、少し離れたところにはすっかり元気になったバクティの姿があった。持ち主である男性もにこにこと嬉しそうだ。
「何かあったクポ?」
 エクレールの様子がいつもと違うことを察知してか、モーグリが不思議そうに小首を傾げてみせる。
「……ちょっと人とお話していたのよ」
 ホープから贈ってもらったリングを失くしてしまったことは口にすることができなかった。何より彼に悪い気がしたし、探しに行こうとしていたなんて口にすれば、きっと心配させてしまう。自分のことを後回しにばかりするホープに、これ以上余計な心配をかけさせたくなかった。兎にも角にもリングは手元に戻ったのだ。ぎゅっと手のひらを握りしめて、エクレールは頷いた。
「あれ? 革紐が切れてしまったんですか?」
「はい!?」
 首から下げっぱなしになっていた革紐が切れていることに気付かれてしまったらしい。咄嗟に裏返った声を上げたエクレールに、ホープの方が驚いた表情になる。
「えっと、多分擦り切れちゃったのかな。り……リングは大丈夫だから!」
 握りしめていたリングをこれ見よがしに開いて、エクレールは声を上げた。事実、リングはエクレールの手元に戻ってきている。心配することなんてないはずなのに、ホープの方はというと奇妙なものを見るような眼差しになった。
「擦り切れたにしては、革紐の切り口が妙じゃありませんか?」
「そう言えば、切り口が真っすぐクポ」
「え……?」
 言われて視線を落としてみると、革紐は綺麗に断ち切られているのが分かった。擦り切れるとしたら、もっと皮の部分が痛んでいるはずだ。これではまるで鋭利な刃物で切り取ったようにさえ見える。
「……どこかに引っ掛けてしまったのかしら?」
 自分で口にしながらも、それらしい心当たりが思い浮かばず、エクレールは首を捻った。引っ掛けたのなら多分、気が付いているはずなのだ。しかし、現にリングは落ちてしまっているのだから不思議な話だ。やはり気が付かないうちに、革紐に負担がかかったと考えるべきなのだろうか。
 ひとまずリングは服のポケットに念入りにしまい込んで、エクレールは顔を上げた。
「せっかくテージンタワーにまで来たんだもの。切れないチェーンみたいなものがないか探してみるわ」
「そうですね。お店も多いですから、何件か回ってみたらいいものが見つかるかもしれません」
「楽しみクポ!」
 モグの言葉にエクレールもまた頷いてみせる。その言葉の通り、エクレールとホープ、それからモグは、テージンタワーの中に構えている店舗を順番に見て歩いて行った。
 エクレールとモグにとっては何もかもが目新しくて、新鮮だ。磨き上げられた武器や防具。身体の能力を向上させる効果を持つとされるアクセサリ。様々な商品が並ぶ店舗は見ているだけでも楽しく、気が付けばあっという間に時間は過ぎていった。
「丁度いいチェーンが見つかって良かったですね」
 エクレールの目当ては何軒か店舗を回っている内に、丁度いいものが見つかった。貴金属を売る小さな店だったが、アクセサリとしても問題なさそうなチェーンも取り扱っていたのだ。
「でも、カードが……」
「クポ~……」
 喜んだのは束の間、物の売買にはギルというものが必要だということが分かったのだ。二年間、物々交換で成り立つモーグリの里で過ごしてきたエクレールにとって、ギルでの売買は全く未知のやり取りだった。
 おまけに出会う人たちはみな、ギルを自分のカードの中に入れて持ち歩いているらしい。身分証明にもなるというまるで魔法のようなカードを、生憎エクレールは持っていない。その為、店先でホープが助けてくれなければ、ちょっとした騒ぎになっていたに違いなかった。
「こういうのは経験ですから。次は大丈夫ですよ」
 それに、ほら。とてもエクレールさんに似合っています。
 エクレールの首元で光るリングを見て、ホープが目を細める。我ながら現金なもので、そう言われると悪い気はしない。エクレールは胸元で光るリングを見下ろして、釣られるように口元を緩めたのだった。
「八層目が封鎖になったらしいねえ」
「本当かい? 向こう側に渡れないじゃないかい」
「何でも機材の故障らしい。動かないんだとさ」
「それじゃあ直るまでヲルバには行けないねえ」
 店先で世間話をしていた女性客を前に、エクレールとホープは顔を見合わせた。これからヲルバに行こうというのに、肝心の道が封鎖されているというのだ。
「失礼します。八層目の封鎖がいつ解けるかご存知でしょうか」
 突然会話に入ってきたホープに、女性たちは怪訝な表情になって彼に視線を向けた。そうして話しかけてきたのが顔の整った物腰の柔らかい青年であると気が付くや否や、ころりと目尻を下げてみせる。
「ついさっき聞いた話さ。詳しいことは分からないけれど、一日、二日はかかるって聞いたね。もし気になるようなら、掲示板まで行くといいよ。そこに情報が集約されているからね」
「ありがとうございます」
「いいのよ~」
「もしまた何か困ったことがあったら聞いてちょうだいね」
 礼をしてこちらに戻ってくるホープの背中を、彼女たちは熱心に見つめている。まさに一瞬で心を掴んでいったと言ってもいい。そのあまりに鮮やかなホープの手並みに、エクレールは呆気にとられるばかりだった。
「すごいわ。でも、胃の辺りがむかむかするのはどうしてかしら」
「ホープは女の人たらしクポ」
「人聞きの悪いこと言わないでください」
 モグの言葉に、戻ってきたホープが半眼になって抗議の声を上げる。じとりと見上げてくる四つの目を振り払うように、ホープは息を吐いた。
「とにかく、掲示板のところにまで行ってみましょう。確か北側のフロアにあったはずです」
 とは言え、この調子だと今日はもう進めませんね。元々宿泊はテージンタワーにするつもりでしたから、問題ないと言えば問題ないのですが、あまり長く足止めは食らいたくないところです。
 続いたホープの言葉の通り、スーリヤ湖からテージンタワーに移動するまでにそれなりの時間が経過している。テージンタワーでの滞在時間を鑑みても、今日はこの建物で一泊するというのが現実的だろう。
「でも、カードが……」
 人間社会にはギルが必要だということを知ったばかりのエクレールは、当然のようにカードを持っていない。同時にそれは身分証明ができないことも示している。眉根を寄せる彼女を前に、ホープはあははと朗らかに笑った。
「その点は心配しないでください。ちゃんと泊まる分はありますから」
「でも、元々ホープは一人旅する予定だったんでしょう? 私とモグの分もとなると、負担が大きくなるんじゃないかしら」
「クポ~……」
 なおも不安げな声を上げるエクレールを前に、ホープは神妙な表情になった。
「実はこう見えて、僕、ちょっとしたお金持ちなんですよ」
「そうなのクポ!?」
「まあお店を買い占めろとかそう言うのは無理ですけど。でも、二人分くらいなら全然へっちゃらと言うか……これまでほとんど使う機会がなかったから、丁度いい機会なんです」
「物を買うのにギルが必要になのに?」
「僕には物が必要なかったんですよ」
 エクレールの問いかけに、ホープの表情に陰が落ちる。いつもは穏やかな雰囲気の彼が、まるで知らない人のように見えて、エクレールは思わず瞬きをした。そうして再び見上げた彼は、いつもと変わらぬ表情を浮かべている。
 先ほどの陰りは一体何だったのだろう。尋ねるタイミングを失って中途半端に伸ばした手を、エクレールはぐっと握りしめた。
「……それでも、今は必要なのよね」
「ええ」
 淀みなく帰ってくる返事。いつもと変わらぬホープの柔らかい声にようやく少しだけ安心して、エクレールは彼と共に掲示板の方角へと歩いて行ったのだった。
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