2019.07.07 公開

#12

「はああっ!」
 ブレイズエッジが鈍い光を放つ。
 一閃。まるで、断ち切るかのようだ。振りかぶったホープの一撃が、マーナガルムの胴体に叩き込まれる。キャンッと甲高い声を声を上げるその姿は、恐ろしい魔物とは言え元は獣であったことを伺わせる。仰け反ったマーナガルムを待っていたかのように、背後から影が飛び降りてきたのはそんな折だった。
「クエーッ!」
 黄色い羽を広げた大きな鳥――エクレールを乗せたチョコボが鋭いくちばしを振り下ろす。
 突如現れた背後からの敵となると、いかに素早い動きが得意なマーナガラムと言えどもたまらない。怯んだその動きを追いかけるかのように、ホープが腕を振りかぶった。ぶうん。躍動するかのようにしなやかな筋肉が盛り上がり、ブレイズエッジの切っ先がマーナガラムに飲み込まれる。このままトドメを刺せる――そう思われた次の瞬間の出来事だった。
「危ないクポ!」
 モグの悲鳴のような声が響き渡る。
 ブレイズエッジが突き刺さったままのマーナガラムが、決死の勢いで牙を振り上げ、ホープに噛みつこうとしていたのだ。
「やああっ!」
 巨大な牙がホープを噛み切ろうとするその寸前の所で、振り下ろされた刃がある。
 チョコボから飛び降りたエクレールが、垂直にお守りのナイフを振り下ろしたのだ。重力に従って振り下ろされた刃の衝動で、今度こそマーナガラムが怯むのが分かった。
「エクレールさん!」
 ブレイズエッジを抜き取り、構えの姿勢を取ったホープが声を上げる。体を引いたエクレールと入れ替わるかのように身を乗り出し、彼は今度こそマーナガラムの首を切り裂いた。
 命を刈り取られたマーナガラムの四肢から力が抜ける。地面に崩れ落ちた魔物が事切れていることを確かめて、ようやくホープは肩の力を抜いた。この近辺は魔物の数は少ないものの、その分一体あたりの個体の能力値は高い。たかが一体と油断していると先ほどのようなことになりかねない。
「エクレールさんのおかげで助かりました」
 ありがとうございます。そう口にしてから、ホープは眉をひそめた。
「ですが、あまり危険に飛び込まないでください。最低限の護身術はお伝えしましたが、前には僕が出ますから」
「……バックアップは私、そういうことでしょう?」
 ナイフを折り畳みながら、エクレールはゆっくりと顔を上げる。
「頼りないかもしれないけれど、ホープが危ない時は私だって戦うわ。さっきの戦いだって、あのままじゃホープが怪我をしていたかもしれないじゃない」
 二年前に大怪我を負って療養していたからこそ、エクレールには怪我の辛さがよく分かる。そういう思いをホープにしてほしくなくての言葉だったのだが、対する彼の方は違ったようだ。
「僕が怪我するのはどうだっていいんです。あなたに何かあると考えたら、僕は……」
 ほとんど掴みかからんばかりの勢いだ。いつもは柔和な彼なのに、エクレールのこととなると途端に過保護になる。やっぱり護身術をお伝えしたのはエクレールさんのために良くなかったのでは……。そう表情を曇らせるホープを前に、エクレールは眉根を寄せた。
 薄々思っていたことではあったけれども、ホープは自分のことに頓着しない。その癖、エクレールに何かあることを酷く怖がる節があるのだ。
「魔物が出てくるって言うのに、戦えないままの方がずっと危険だわ。自分のことくらい自分で面倒が見れるようにならなくちゃ」
 頭がいいはずなのに、エクレールを案ずるがあまりに視野が狭くなっている。呆れたように息を吐いたエクレールの正論に、ホープがはっと我に返る。
「そう……ですね。すみません、言いすぎました」
「気にしないで。ホープが私を心配して言ってくれてるっていうのは分かっているから」
 かつてコクーンで暮らしていたライトニングは、仕事で出かけたパルスで消息を絶ったという。当時同行していた仕事仲間の危機に、ライトニングはその身を挺して庇い、崖下に落ちたのだ。その後の調査で魔物に襲われたという事実が判明し、てっきり死んでいるものだと思われていたらしい。
 つまりホープも二日前にエクレールと再会するまで、彼女が死んでいたのだと思っていたということになる。その事実を踏まえて考えれば、ホープが過保護になるのはある意味当然と言えば当然で、エクレールはそれ以上強く言えなかった。
 再会した時、小さなモーグリのように頼りなく震えていたホープの姿を思い出す。きっと、たくさん心配してくれたのだろう。いなくなったエクレールを想って、胸を痛めてくれたのかもしれない。当時のホープとエクレールの関係性は、ホープが言葉を濁したためにはっきりとは分からない。とは言え、出会った時の彼の様子から察するに、かなり近かったのではないだろうかと推測できた。それこそ今のエクレールとモグのような関係だったのかもしれない。
(……分からないよね)
 ホープは確かにエクレールが望めば情報を与えてくれる。しかし、一度にすべてを教えるつもりはないらしく、ところどころ煙に巻かれているようにも思うのだ。もちろん、エクレールが混乱しないようにという配慮もあるのだろう。しかし、質問の性質によっては暗に聞くべきことではないと諭されているようにも感じるのだ。
 エクレールの気のせいでなければ、出会った頃に感じていた親密さというか、そういったものは、今のホープからは感じられなくなっていた。彼なりに、すでにライトニングと名乗ることをやめたエクレールとの距離感を掴もうとしているのかもしれない。それはある意味では正しくもあるのだが、同時に少し寂しいような気もした。だけどそれは、すべてを忘れてしまったエクレールが語る筋合いのないことなのだ。
「あら?」
 直前までエクレールを乗せてくれていたチョコボを引き取りに行こうとするホープの動きに微かに違和感を覚えて、エクレールは首を傾げた。心なしかホープが左半身を庇っているような動きをしたような気がしたのだ。
 モグとチョコボが互いに何か話し合っているのを傍目で見ながら、エクレールは声を上げた。
「ちょっと待って、ホープ」
「エクレールさん?」
 エクレールに呼び止められて小首を傾げるホープの仕草には、一見不審なところは感じられない。思い過ごしだったかしら、と首を捻りつつも、やはり違和感は拭いきれない。そのままエクレールはホープの傍まで歩み寄ると、ひと思いに彼の服を捲り上げた。
「えっ、ちょっとエクレールさん!?」
 慌てたようなホープの声が上から降ってくることを無視して、エクレールはまじまじと彼の脇腹を覗き込んだ。案の定、その場所は薄らと赤くなっている。
「……怪我してる」
「あ……」
「一度、休憩しましょう」
「このくらい、どうってことないですよ」
 取り繕うかのようにそう口にするホープを前に、エクレールはじとりと半目になった。
「戦闘のエースが万全じゃなかったら、危ない思いをするのは私たちなんですけど」
 ホープは自分の事には無頓着だ。その反面、エクレールの身の安全を何より気にしている。要するにエクレール自身の危険を兼ね合いに出せば、ホープは大人しくなるということだ。
「……はい」
「よろしい」
 案の定静かになったホープにエクレールはため息を吐くと、彼を連れて一息付けそうな場所を探した。
 小鳥が空を飛んでいる。チチチッと囀るその声はどこか微笑ましい。辺りは平原が続いていて、どこもかしこも見通しが良かった。クリスタルに支えられているコクーンがひときわはっきりと見える。
 その中にぽつねんと立っているクリスタルの大樹が目に付いた。まるでコクーンに向かって伸びているかのようだ。天を向く硬質なクリスタルと、あたり一面に咲いている柔らかそうな綿毛の対比が印象的な光景だった。
 周囲には魔物の気配は感じられない。びっしりと大樹を覆う苔は柔らかそうで、一息つくには良さそうな塩梅に見えた。エクレールは白いふわふわとした綿毛を掻き分けながら、ホープを連れてその場所を目指す。
「さあ、座って」
 もうすっかり慣れたものだ。エクレールは持ってきた手荷物の中から塗り薬を取り出した。ポーションを使ってもいいのだが、数に限りがあるものなのでなるだけ緊急時用に取っておきたい。さきほど見たところでは軽い打ち身のようだったので、塗り薬を塗った後、内出血が広がらないように包帯を巻くという処置で良いだろう。長い療養生活のおかげで、すっかりこの手のことには詳しくなっていた。
 ホープはエクレールに促されるままにクリスタルの大樹の根元に腰を下ろす。そんな彼の服を捲ろうとすると、「流石にそれは自分でやります」と断られてしまった。この期に及んで渋らないかしら、と反目になるエクレールを前に、居心地悪そうにホープがグローブを外している。両手分外して素手になったところで、彼はジャケットを留めている金具に指を伸ばした。
 ぱちん、ぱちんと音がしている。脱ぐのが面倒そうな服だなと常々思っていたものの、やはり面倒そうだ。細かい細工の金具を長い指先で器用に外していく。両側外すのかと思いきや、片方だけでいいらしい。そのままホープはジャケットを脱ぐと、その下に来ていたシャツに手を伸ばした。
「そんなに襟元が閉まっていたら、息苦しくないかしら」
 思わず浮かんだ疑問はそのまま口にしてしまったらしい。エクレールの言葉にホープは苦笑を零してみせた。
「慣れてしまえばどうってことないですよ」
 暑くなると緩めることもありますが、今のところは問題ないですね。そう口にしながら、ホープはシャツの襟元のボタンを外してみせた。
「……」
 その首筋の太さと、露わになっていく胸元にエクレールは思わず視線を奪われていた。
 ホープが水浴びをしていた時に垣間見てしまった素肌が、今再び目の前で露わになっている。別に疚しいことは何もないはずなのに、奇妙な居心地の悪さがあった。じんわりと頬に熱が集まっていくのが分かる。
「っ、じゃ、じゃあ、薬を塗るわね」
 薬を乗せた指先を伸ばそうとして、エクレールは思わずごくりと喉を鳴らした。
 朝は一瞬しか見られなかったホープの身体が目の前にある。エクレールとは違って、胸には脂肪らしいものは付いておらず、代わりに薄らと張った筋肉が見える。あばらが織りなす凹凸も、流れる様に引き絞られていくそのラインも、エクレールとはあまりにも違いすぎて、思わず食い入るように見てしまった。
「そんなに見られると恥ずかしいのですが……」
 降ってきた声が、僅かに苦笑を孕んでいることに気が付いて、エクレールは飛び上がりそうになった。
「きゃっ」
 慌てて口元を押さえる。そんなエクレールをホープは物珍しそうに見下ろしていた。
「な、何か……?」
「いや、なんだか新鮮だなあって思って」
「……前の私は、『こういうこと』をしなかった?」
 勘が働いたとでも言ったらいいだろうか。ほとんど直感的にエクレールはそう口にしていた。そんな彼女を前に、ホープが再び驚いたように目を丸くしている。
「すみません。比べるとかそういうつもりはなかったのですが……」
「いいの。多分、前の私とは違うんだっていうの、なんとなく分かっているから……」
 すみません。会ってから、ホープはその言葉ばかりだ。そんな風にすまなさそうな表情をさせたかったわけじゃなかったのに。彼のすまなさそうな表情を見る度に、つきりと胸が痛む。
 エクレールがライトニングであれば、ホープはこんな表情をしないのではないだろうか。そんなことを思えば思うほど、胸の奥の痛みは大きくなっていく。
 こんなことばかり考えちゃ駄目だわ。
 エクレールはふるふると首を振ると、努めて明るい声を上げた。
「そう言えば、ホープは私と体の造りが全然違うのね。同じ『ヒト』かと思っていたのだけど」
「え?」
 急に振られた話の内容が意外だったのだろう。ホープは驚いたように目を丸くしている。
「ほら、私、二年間モーグリの里にいたって話したでしょう? モーグリたちはみんな妖精だから、個体としての差はほとんどないの。よく見ると顔の造りが少し違ってたりはするんだけど、ぱっと見た感じは変わらないのよ」
 そこまで語ったエクレールを前に、ホープは彼女が言いたいことの意図を読み取ったようだった。離れたところでチョコボと楽しそうに話しているモグへと視線を向けて、それからエクレールへとエメラルドグリーンの瞳を戻してみせる。
「僕もエクレールさんと同じ『人』ですよ。ただ、僕は男性で、エクレールさんは女性ですが……」
「だんせい?」
 首を傾げるエクレールにホープはこくりと頷きながら言葉を続けた。
「ええ。モーグリは性別がなかったから、エクレールさんはご存じなかったのですね。例えば……ほら、このクリスタルの木を見上げてみてください」
 ホープに促されるままにエクレールは視線を上げる。きらきらと太陽の光を反射するクリスタルの大樹は、変わらぬ煌めきで輝いている。目を細めながらも、エクレールはホープが指差した方角に目を凝らした。
「あれは……鳥?」
「ええ、雛鳥です」
 木の窪みを利用するかのように、小さな枝葉で作られた巣がある。その中でピイピイと鳥のようなものが囀っているのだ。先ほど見かけた個体よりも一回りほど体は小さく、見た目も心なしかふわふわとしている。
 可愛い、という素直な感想が頭に浮かんだ。ただその可愛さは、モーグリたちとはまた種類の違う、庇護欲を掻き立てる類のものだ。
「見てください。親鳥が餌を運んできました」
 ホープの指先に釣られるようにして視線を動かせば、エクレールの見慣れた姿の鳥がくちばしに虫のようなものを咥えて巣へと戻ってきている。そうして、ピイピイと鳴き声を上げている雛鳥たちに、持ってきた虫を分け与えているのだ。
「雛たちには雄と雌……要は男と女という性差があります。時を経て大人へと成長すると、それぞれの性別同士が一対のつがいとなって、子を設け、そしてまた命は循環していくんです」
 モーグリは精霊なので、そういった仕組みの輪からは外れていたのかもしれませんね。呟いたホープは興味深そうだった。そうして彼はこうも続けてみせる。
「一部の例外を除けば、この世界における動物の理と言っても差し支えないでしょう。もちろん、人間だってそうなんですよ」
 僕は男の人。
 エクレールさんは女の人。
 体の造りが違うのは、子供を産み育てるための役割がそれぞれ異なるためです。人間だけじゃない。自然界においても、それは当たり前に存在することなんです。
 巣の中で鳴いている雛鳥たちはとても小さくて、エクレールの手のひらに収まってしまいそうなサイズだった。手を伸ばし、力を込めてしまえばそれこそあっという間に殺してしまうことが出来るだろう。崖の上で襲われた鳥の魔物と同じ行為をエクレールは行うことが出来ると言ってもいい。
 この世界は弱肉強食だ。手を掴んで殺してしまおうが、生存競争と言ってしまえばそれだけの話である。……だけど。
「あの子たちも、精一杯生きているんだわ。……私たちと同じように」
 親がいて、子がいる。子はいつか親になる。雄と雌。男と女。それぞれの身体の違いを補い合って、新しい命を育んでいく。
「体の造りが違う事には意味がある……」
 それは、エクレールにとってまったく新しい世界だった。
 モーグリたちの里の中で生きている限り、まるで触れることのなかった価値観だ。
 女である。生まれた時にそう宿命付けられた理の中で生きてきたはずのエクレールの方が、あの里の中では異端者だったというのだ。
 ホープからエクレールへ。
 不意にその言葉を思い出す。エクレールはほとんど反射的に胸元に下げているリングを手に取った。この二年の間、何度も何度も眺め続けたもので、そこにはホープとエクレールの名前が刻まれている。
「私とホープはつがいだったの?」
 それはごく自然に浮かんだ疑問だった。
 口にしてみると、改めてエクレールはその言葉がしっくりくる表現なのだと理解した。初めて出会った時、ホープは酷く動揺していた。それは彼にとって、かつてライトニングと名乗っていたエクレールが特別な存在だったからなのではないだろうか?
 男と女。二人で一つ。
 つがいがそういった意味を持つものであれば、ホープから贈られたという名前を彫り込まれたリングも、彼のエクレールに対する心の砕きようも、すべてが繋がっていく。狭い世界の中で、エクレールが知り得た知識を繋ぎ合わせただけの見当違いかもしれない。それでも、何となく直感めいたものをエクレールは感じたのだ。
「それ、は……」
 ホープがエメラルドグリーンの瞳を揺らめかせている。覗き込むとその中にエクレールの姿が浮かんでいるのが分かった。彼が戸惑いの表情を浮かべる。微かに唇が戦慄いているようにも見えた。
「……そうです。僕とかつてのエクレールさんは、所謂つがいと呼ばれるような関係性にありました」
 ほとんど吐息のような声だった。ホープの言葉に、やっぱりという想いが広がっていく。ホープとライトニングはつがいという関係性を持っていたのだ。
 自分の事のはずなのに、酷く冷静になって客観視していることにエクレールは気が付いた。ライトニングはエクレールだった。ホープはライトニングと特別な関係にあった。
 その事実だけがすとんと体の中に落ちてきて、動揺は思った以上に少ない。次に問いかけるべき言葉は、自然とエクレールの口から紡ぎ出されていた。
「私たちに雛はいたの?」
「ぶっ」
 雛鳥の話の流れから考えるに、それはエクレールにとって自然な流れだったのだが、ホープにとってはそうではなかったらしい。彼はエクレールの言葉に咽たと思ったら、そのまま顔を真っ赤にさせてゴホゴホと咳き込んでいる。
「え、えっと、どうしたのかしら……。背中をさすった方がいい?」
「い、いえ。大丈夫です、お気遣いなく」
 かつてはつがいだったというのに、今のホープの距離感が少し寂しい気がするのは、やはり初めて会ったヒトが彼だからなのだろうか? 彼以外のヒトと会った時、エクレールは一体どう思うのだろう。少しだけ考えてみたのだけど、それはエクレールの想像の外にあるもので、どうしても分からなかった。
 ホープ以外のヒトに対して、この感情を持つ自分が想像できなかったとも言える。
「結論から言います。人間の場合、雛ではなく子供と言います。そして僕らの間にはまだ子供はいませんでした」
「そうだったの……」
 呟いてから、何となくがっかりしている自分に気が付く。見上げた雛鳥はふわふわとして可愛かった。ホープとエクレールの間に子供が生まれていたのなら、きっとさぞかし可愛かっただろうにと思ってしまうのは仕方のないことだろう。同時に、もしも子供がいたとしたら、エクレールは実に二年もほったらかしにしていたということになる。そういった事態になっていなかったということに安堵するべきなのかもしれない。
 ううむと首を捻りながら、ふとエクレールはあることに気が付いた。
「そう言えば、人間の子供ってどうやって作るのかしら?」
 ホープとライトニングが特別な関係にあったということは分かった。恐らくあの鳥たちのように巣作りをしていたと考えるのが自然だろう。その後に子供を作るのだろうということは想像できたのだが、記憶が吹き飛んでいるエクレールに生憎知識はない。
「ホープ?」
 どうやら硬直しているらしい。エクレールが声をかけると、ホープは驚いたように体を微かに震わせた。
「男の人と女の人の身体の造りが違うというのは分かったわ。多分それがヒントになるんじゃないかと思うのだけど……」
 言葉を続けるエクレールの肩にホープの指先が伸びる。ほとんど反射的に顔を上げれば、吸い込まれそうなエメラルドグリーンの瞳が至近距離にあった。
「知りたいですか?」
 言葉はそれだけだった。男と女。二人で一つのつがいで、かつてのホープとライトニングはその関係にあった。つがいが子供を成すものならば、それはエクレールだって知っていて問題のないことのはずだ。そうだというのに、目の前のホープは妙に迫力があって、思わずエクレールはごくりと喉を鳴らした。
「え…ええ……」
 半ば飲み込まれるようにして、エクレールは顔を縦に振った。そもそもの話、エクレールが振った話題だ。それなのにこうも尋ねてくるのだから、よほど子づくりには大切な秘密があるらしい。
 そんな風に考え込んでいたからだろうか。エクレールは背中に手を差し込まれたまま、自分が地面の上に引き倒されていることに気が付くまでに少しの時間を必要とした。
 柔らかい苔のクッションのような感触が背中から伝わってくる。エクレールは呆気にとられて瞼をぱちぱちと瞬かせた。視線の先には、彼女のことを見下ろしているホープの姿と、ふわふわとした白い綿毛が揺れている。
 どうして私は地面に倒されているのだろう? そう疑問を抱くよりも彼の顔が下りてくるのが早かった。
「っ」
 首筋にちりっとした痛みを感じて、エクレールは思わず強く目を瞑った。一体何が起こったのだろう。恐る恐る瞼を押し上げてみれば、上半身も露わなホープがエクレールの首筋に顔を埋めている。
「ひぁっ!?」
 唇から零れ落ちた、ひっくり返るような声音に自分自身が驚いた。
 くすぐったい何かが、エクレールの首筋を這っている。それがホープの唇であると理解するまでに、エクレールには少しの時間が必要だった。そうこうしている間に、悪戯な唇がエクレールの鎖骨にまで降りてきている。
「え、あ、あの、ホープ……?」
「……エクレールさんから誘ったんですからね」
 何を誘ったのか主語が抜けている。とは言え、その直前にしたのが『子供の作り方』なのだから、これが子供を作るために必要なことなのだろうとエクレールには推測できた。
 いずれにせよ、色々なことを知っているホープが(行為はとてもくすぐったいけれど)間違えたりすることはないに違いない。こうやって子供が生まれるのね、と思うとなんだかとても不思議な感じがした。ホープとの子供であれば、きっと可愛いに違いない。
 うんうんと頷いて、抵抗らしい抵抗をやめたエクレールの服の隙間からホープの指先が侵入してくる。ほとんど反射的にエクレールはびくりと体を震わせた。
「こ、これも必要なことなの……?」
 首筋を触るだけで終わりでなかったらしい。というよりも、いよいよホープの指が本格的にエクレールの身体をまさぐろうとしている。
「そうですよ。子供を作るためには、男と女が裸になる必要があるんです」
「ま、待って。私の身体、怪我の痕が残っているからあまり見ないで欲しいの……」
 二年前に崖から落ちて、魔物と戦っていたというエクレールの身体は大きな傷も小さな傷もたくさん残っている。もちろん傷自体は時と共に癒えたのだが、跡だけはどうしても消えてくれなかったのだ。着替える度に体中に残った跡にうんざりとしたものだが、まさかそれをホープに見られるとは思っていない。
「そんなこと、気にしませんよ。そもそも僕だって傷だらけですし」
 言われてみれば、確かに上半身裸のホープにもたくさんの傷跡が残っている。言い換えればそれだけ、彼が戦ってきたということだ。なんだか急に胸が苦しくなって、エクレールは息を詰めた。
「エクレールさんがこれまで戦ってきた証じゃないですか」
 まるで考えてきたことを読み取られてしまったかのようだ。続いたホープの言葉に、エクレールは今度こそ言葉を失くして彼を見上げた。熱を孕んだエメラルドグリーンの瞳がエクレールのことを見つめている。
「大丈夫、僕に任せて……」
 ジーッと音を立てて、エクレールが着こんでいたサマーセーターのチャックが降ろされる。
こんな外で、それもホープと一緒になって裸になるだなんて恥ずかしい。赤面したまま俯くエクレールを前に、ホープは「それに」と柔らかく微笑んでみせる。
「モグも服を着ていないじゃないですか。別に変なことじゃないですよ」
「他のモーグリは服を着ていたもの」
 モグは確かにほぼ全裸と言っても差し支えはないのだが、里のモーグリたちはそれぞれが気に入った衣服を身に纏っていた。エクレールが今来ているインナーは崖から落ちた当時のものだが、彼らはエクレールの服も何着か用意してくれていたのだ。
「流石に駄目か……」
「え?」
「いや、何でもないです」
 そう口にしているホープは、曇りのない笑顔だ。にこにこと屈託なく笑顔を向けられると、胸の奥がきゅっと苦しくなる。
「まただわ」
「どうかしましたか?」
 胸元を押さえるエクレールの動きに、ホープが小首を傾げる。そんな彼の問いかけに、エクレールは眉根を寄せて答えてみせた。
「ホープのことを見ていると、胸がドキドキして苦しいの。前にも言ったと思うけれど、私、あなたの傍に居ると不思議な病気にかかってしまうのよ」
 この病気には対処法らしい対処法が見つからない。強いて言えば、ホープから離れていると動悸が収まってくれるということくらいか。傍でホープを見つめている時にだけかかる、厄介な病気。心底弱り果てて声を零すエクレールを前に、ホープが驚いたように目を丸くしたのが分かった。
 そうして彼はエクレールを案じるのではなく、むしろ嬉しそうにエメラルドグリーンの瞳を細めてみせたのだ。
「それはですね、エクレールさん」
 囁くようなアルトの声。これまで聞いた彼のどんな声よりも優しく響きながら、エクレールに降ってくる。
「……恋という病なんですよ」
 胸元にちくりとした痛みが走る。気が付いた時には、エクレールの上半身はすっかり日の下に曝け出されていて、その上を覆いかぶさるようにホープの唇が這っていた。
 彼に触れられるその部分は、まるで熱を持っているかのようだ。熱くて、熱くて、なんだか体の芯の部分がじんじんとする。喉の奥からは自分ではないかのような高い声が時折零れて、エクレールはその度に唇を手で塞いだ。
「すごく綺麗です。ねえ、声、我慢しないで」
 優しく囁かれると、それだけで体の力が抜けてしまう。そんなエクレールの反応をまるで待っていたかのように、ホープはエクレールに触れていった。
「ホープ……っ」
 彼の名前を呼ぶ。その声が思いがけず切羽詰まったものになったことを自覚しながら、それでも彼を求める様に手を伸ばす。そうすれば、応える様に彼はその手を握り返してくれた。
「はっ……ん、っ」
 ホープの長い指先が、ゆっくりとエクレールの足に触れるのが分かる。そこから先は、疼いて疼いてどうしようもない場所だ。今、その場所がどんなことになっているのかも分からないのに、ここから先に進んでしまったら一体どうなってしまうというのだろう。
 期待と微かな不安に体が震えるのが分かる。涙で微かに滲んだ視界でホープを見上げると、彼はエクレールの不安を拭い取るように優しく目を細めてくれた。
 風に綿毛が揺れている。白く、ふわふわとした大きな綿毛だ。ホープならこのまま知らないところまで連れて行ってくれる。ほとんど確信を持ってエクレールは手のひらを伸ばした――その時。
「ク~~ポ~~~~ッ!」
 エクレール! ホープ! どこクポー!
 聞き慣れたモグの声が、少し離れたところから近づいてきているのが分かった。
 ほとんど反射的にエクレールは起き上がっていた。慌てて開かれていた胸元のチャックを押し上げる。ずれた下着もそのままに、体面だけはなんとか整えた形だ。
「クポ? こんなところで何をしているクポ?」
「あ、あはは……。えっと、ホープの怪我の治療……?」
「クポッ! ホープ、怪我しているのクポ!?」
 嘘は言っていない。とは言え、兄妹のように接しているモグを騙しているような気がして、なんだか心苦しい。だけど、先ほどのホープとのやり取りをモグに勘付かれるのはなんだか気恥ずかしかったのだ。
「それなら、モグがおまじないをかけるクポ!」
 クポー! くるくるぴゅ~。モグがそう口にすると、淡い光がちらちらと光りはじめて、ホープの身体を包み込む。妖精の与える祝福が彼に流れ込んでいるのだ。
 モグがステッキを振るうと、ホープの脇腹に薄らと広がっていた赤い腫れがみるみるうちに引いていくのが分かった。
「すごい……ケアルみたいだ」
 すっかり正常な色に戻った己の肌をひと撫でして、ホープは驚きの表情でモグを見た。
「モグは魔法は使えないクポ。代わりに、精神異常やちょっとした怪我ならこれで治るクポ!」
 万能薬要らずクポ! えっへんクポ!
 そう声を上げるモグを前に、素直にホープは感心している。
「……魔法?」
 聞き慣れない単語を口にし合うホープとモグを前に、エクレールが小首を傾げる。ケアルという言葉も、エクレールにとっては初めて耳にする単語だ。
「火の力や水の力、体の回復を促す力。用途は様々なのですが、そう言った超常現象を扱うことを魔法と呼ぶんですよ。モグの力はそれに近いんです」
「すごいわ……。ねえ、その魔法ってホープも使えるの?」
「残念ながら僕は使うことはできません。魔法を使うことができるのは、ルシと呼ばれる限られた存在と魔物たちくらいなんです」
 とは言え、最近ではアカデミーでの研究が進んできて、魔力のメカニズムが少しずつ解明されつつあります。召喚獣の伝承も紐解かれつつあるんです。もしかすると近い将来、普通の人たちも魔法が使うことができるようになるかもしれませんね。
 そう続けたホープの言葉に、エクレールの表情がぱあっと明るくなる。
「そうなのね! そう言えばアカデミーって、次の目的地の……」
「ええ、テージンタワーはアカデミーの拠点になっています」
「ますます楽しみになってきたわ」
「クポッ!」
 何でも、パルスに関する調査から魔法の体形に関してまで、ありとあらゆることを手掛けている組織だというのだ。おまけにそこには、ホープ以外にもたくさんの人がいるらしい。これでエクレールの期待が膨らまない方がおかしい。
「僕は少し心配しています。人が多いと、その分色々な思惑があったりしますから」
 浮かれるエクレールとは対照的に、ホープの方は難しい表情だった。彼なりに思う所があるのだろう。
 エクレールさんはすごく美人で、屈託がないから色々と心配です。呟くようにそう口にする。
「とは言え、渓谷を越えるためにはテージンタワーを通るしかありません。滞在中は僕から離れないでくださいね」
「ふふ、ホープは心配性ね」
 言い聞かせるかのようなホープの口ぶりは、どこかモグを連想させる。思わずくすりと笑みを零せば、不意打ちで真摯なエメラルドグリーンの瞳が向けられた。
「あなたが大切ですから」
 そんな風に熱の篭った眼差しを向けられたら、頷くことしかできないではないか。モグみたいだなんてとんでもなかった。ホープはすっかりエクレールを骨抜きにしてしまう気だ。
 みるみるうちに顔を赤くして、エクレールは口をすぼめてみせた。
 ホープは恋の病だなんて言ったけれど、私ばっかりこんなになってずるいわ。
 恨めしげな視線を送るものの、ホープの方は涼やかな表情だ。翻弄されてばかりで悔しいと思う反面、それさえもドキドキして奇妙な心地良さがあるのだから、我ながらどうかしていると思う。
「なら、この手を離さないでちょうだいね」
「ええ」
 ちょっとした悪戯心で差し出した手のひらに熱。
 今度こそエクレールは熟れた林檎のように真っ赤になって、顔を伏せたのだった。
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