2019.07.07 公開

#10

 ロープの補助があるのでなんとかなるだろう。そう安易に考えていたエクレールの目論見はものの見事に外れることとなった。
 多少の傾斜があるとはいえ、崖はほぼ垂直に切り立っているのだ。登りきる頃には腕がパンパンになってしまっているのではないだろうか。へこたりそうになりながらもエクレールはロープを頼りに登っているが、もうかれこれ崖に挑んでから三時間が経とうとしていた。
 何度か途中で休憩を挟んだおかげで、ようやく九割方登ってこられた。しかし、まだまだ油断は禁物だろう。相棒であるモグはというと、こちらは空を飛べるのですっかり応援係に徹している。この時ばかりはモグのポンポンが羨ましい限りだ。
「あそこを登りきれば……っ」
 目指す崖上まであと少しだ。その先にある光景を見たい一心で、エクレールはここまで登ってきた。握りしめすぎてすっかり強張った指で、ロープを手繰り寄せる。後はあの大きな岩肌を登りきれば、まもなく頂上だ。
「よいしょっ……と」
 いつの間にか夜はすっかり明けて、太陽は高い位置にまで登りつつあった。少しずつ昼に活動できるよう体を慣らしていたとはいえ、普段は深い森の中で生活してきたのだ。斜面に降り注ぐ日の光には、まだ馴染みは薄い。利点と言えば、手元がはっきりと見えることくらいだろうか。モーグリたちの生活リズムと真逆の世界は、エクレールにとって何もかも新鮮な驚きに満ち満ちている。
「もうあと少し……!」
 ロープを頼りに、ぐっと腕を伸ばす。エクレールの頭上に影が落ちてきたのは、そんな折だった。
「エクレール、上クポ!」
 モグの甲高い声に、エクレールは顔を上げた。青い空の真ん中に、黒い点のようなものが見える。それがぐんぐんとこちらに向かって迫ってきているのだ。
「魔物クポ!」
 ほとんど反射的にエクレールはロープを手繰り寄せていた。そのまま上半身をばねのようにしならせて、ぐっと足を振り上げる。心臓はまるで早鐘のように脈打ち始めていた。必死で歯を食いしばり、エクレールはとうとう崖の上へと登り詰める。
「やった……!」
 喜びに浸る時間すら与えてくれないらしい。悲鳴のようなモグの声が響き渡る。ほとんど倒れ込むように地面を転がったエクレールの視線の先には、モーグリたちの数十倍はありそうな巨大な鳥の魔物が羽を広げていた。
「いくら何でも大きすぎじゃない!?」
「主クポ! ここら一帯を縄張りにしていて、前にエクレールが追い払った魔物クポ!」
「私が追い払ったって、そんなの全然覚えていないからね!?」
「そんなの分かってるクポ! 逃げるクポ~~ッ!」
 その鋭い鉤爪に切り裂かれようものなら、当然無事ではいられないだろう。くちばしは見るからに大きく、エクレールが腕で払って追い払える相手ではないことは一目瞭然だった。こんな化け物相手にナイフ一本でどうにかしてみせたというかつての自分には驚くばかりだ。
「って言ってもこのまま見逃してくれるわけないわよね……」
 夢にまで見た崖の上は、ものの見事に平野部が続いている。これでは逃げようにも、あまりに見通しが良すぎる。せめて身を隠すことができるような草木が茂っていればいいものの、残念ながら見当たりそうにもなかった。
「っ」
「クポッ!? エクレール!?」
 意を決してエクレールは振り返った。その右手には、光り輝くナイフが握りしめられている。
「無茶クポ! 逃げるクポ!」
「逃げたって追いつかれる! 逃げられないなら、戦うしかないじゃない……!」
 握りしめた右手は、自分でもそうだと分かるほどにか細く震えている。こんな状態でまともにナイフが振るえるとは到底思えない。それでも逃げ場がないのなら、戦うしかないじゃない。カタカタと音を立てる歯を食いしばり、エクレールは顔を上げる。
「ひっ」
 瞬間、翼を広げた魔物と目が合った。まるで何もかもを食い散らかそうとする強者の目だ。翼を広げたその姿はエクレールの一回り以上大きく、それだけで圧倒された。
 こんなの勝てっこない。やっぱり、里の外に出ようとしたのがそもそも間違いだったのだ。
 もはや握りしめているはずのナイフは大きく震えて、照準を合わせるどころの話ではない。へたり込んでしまったエクレールを庇うように、モグが声を上げたのはその時だった。
「エクレール、逃げるクポ!」
「モグッ!?」
 それはあまりにも無謀すぎる突進だった。モグが両腕を振り上げて、魔物に突っ込んでいく。しかし、そんなモグの無謀な勇気とは裏腹に、魔物は羽をはばたかせるとあっという間に彼を吹き飛ばしてしまった。
「クボオッ」
 ヒキガエルが潰れるような声を出して、モグが地面に転がり落ちる。慌ててエクレールは落ちたモグを拾い上げた。先ほどの羽ばたきで気絶してしまったようだが、大事には至ってはいなさそうだ。モグが無事であったことを確認して、エクレールが安堵の息を吐く。そんな彼女の頭上に黒い影が落ちてきたのはその時だった。
 あ、と思った時にはもう遅い。逃げられない――…そう思った次の瞬間、「危ないっ!」と声が聞こえたような気がした。続いて、パアンと乾いた音が響き渡る。
 恐る恐るエクレールは顔を上げた。……どうやら自分はまだ生きているらしい。それどころか、目の前の魔物が不自然によろめいて見えるのだ。
 一体何が起こっているのだろうとエクレールは目を白黒させた。そんな彼女を、まるで魔物から庇うかのように広い背中が現れる。
「僕から離れないでください!」
 目に飛び込んできたのは、プラチナブロンドだった。輝くその色に目を奪われてから、現れたその背中は自分と同じような姿形をしていることにエクレールは気が付く。モーグリではない。これはヒト、だ。
 その人が指先を振るう。次の瞬間、煌めく銀色の刃が太陽の光を受けて輝いた。地面を蹴る。跳ぶ。高く、高く。――刃を、振るう。
 まるで、その人だけ止まった時の中で動いているかのようだった。すべては一瞬の出来事で、エクレールが呆気にとられて見守っている中で、魔物はあっさりと絶命した。突き立てられた刃が引き抜かれると、ぶしゅっという音がして血が噴き出す。そこでようやく、エクレールは目の前の人間に、命を助けられたということを理解したのだった。
 手のひらはまだ微かに震えていた。一体どうしたらいいのだろう。困惑するエクレールを他所に、その人は魔物の方に顔を向けている。声をかけていいのだろうか。喋ってみてもいいのだろうか。躊躇いながら、エクレールは唇を震わせる。
「あの……」
 振り返るのが分かる。
「ああ、すみません。お怪我はありませんで――」
 その人は、エクレールよりも一回りほど大きな体をしていた。だけど、頭は小さい。ふわふわとしたプラチナブロンドの髪の下には、透き通るようなエメラルドグリーンの瞳が輝いているのが印象的だ。体つきはエクレールよりもずっと骨ばっていて、手も足も一回りほど太く見えた。何より、銀色の美しい武器を持つ指先は長い。
 その指先から不自然に力が抜ける。からん、と金属が乾いた音を立てたのが分かった。
「……ライトさん?」
 その人が口にする。その言葉の持つ意味をエクレールが咀嚼するよりも先に、相手は次の言葉を紡いだ。
「夢……?」
「えっと……」
 たった今魔物を鮮やかに倒してみせたというのに、目の前の人はなんだか途方に暮れたような表情をしていた。まるで置いて行かれたモーグリのような。頼りなく目を細めるその人に、ためらいがちにエクレールは言葉を続ける。
「夢、じゃないと思います」
 あなたのおかげで助かりました。伺うように見上げれば、エメラルドグリーンの瞳が揺らめくのが分かる。何が彼をそうさせているのかは分からなかったけれど、少なくともこちらを穴が開きそうなくらい見つめているということは分かる。
「その。……何か?」
 エクレールがそう尋ねれば、はっとしたように相手は顔を上げる。そうして、取り繕うように苦笑を零してみせた。
「すみません。あなたとよく似た人を知っていて……」
 そこまで口にして、彼は眉根を寄せたまま言葉を続けた。
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
 エクレールは困惑した。こういう時に名乗っていいものなのかどうかよく分からない。外は知らないことがいっぱいあるのだから用心するようにと里のみんなに念を押されたばかりなのだ。モグに相談したいところだが、生憎彼は意識を失ったままだった。
 ……でも、危ないところを助けてくれた人だし。名乗っても大丈夫よね……?
 抱きかかえたままになっていたモグを柔らかい地面の上に横たえる。少しだけ考え込んで、エクレールは目の前の人物に返答することにした。何より、崖の上に登って初めて出会った相手だ。色々と聞いてみたいことがある。
「エクレールと名乗っているわ」
 その時のホープの表情を何と表現したらいいのだろう。まるで言葉を失くしたように、彼は呆然としたままエクレールのことを見つめている。そんなにおかしなことを喋ってしまったのだろうか? どういった言葉を選べば正解なのか判断がつかないため、段々と不安になってくる。
「……えっと。あなたのお名前は?」
「す、すみません」
 弱り切ったエクレールが訊ね返したことで、ようやく彼はこちらが困っていることを認識してくれたようだった。さっきからすみませんしか言っていませんね。取り繕うようにそう口にして、彼は唇を開く。
「ホープです。僕はホープ・エストハイムと言います」
「ホープ……? それって……」
 その単語には聞き覚えがあった。エクレールは慌てて胸元のネックレスを手繰り寄せる。その先には、贈り主の名前が刻まれたシルバーのリングが光っているはずだ。
「それをどこで……?」
「これは私の指に嵌っていたものなの。私、昔の記憶がなくて。それで――…」
 そこから先を口にすることは叶わなかった。エクレールは目の前の何かにぶつかったからだ。いや、ぶつかったというのは正確ではない。エクレールは一歩たりとも動いていないはずだし、障害物となるようなものはなかったはずだ。
 ぶつかったと思ったものはヒトだった。エクレールはホープに抱きしめられていたのだ。
 広い胸板が目の前に押し付けられている。一体、これはどういうことなのだろう。目を白黒させるエクレールを他所に、彼はぎゅうっと強くエクレールを抱き寄せる。
「ライトさん、ライトさん……っ!」
 降ってきた言葉は、エクレールの知らない名前だった。だけど、目の前のこの人があんまりにも苦しそうに、切なそうにその名を呼ぶものだから。
「あなたが生きていてくれて……っ」
 どうしたんですか、とか。痛いんですか、だとか。そういった言葉をかけたかったけれど、言葉は喉の奥に張り付いてしまったようで、ちっとも出てきてくれやしなかった。それどころか彼は、まるで小さなモーグリみたいに背中を丸めてか細く震えているのだ。もしかしたら、涙を零しているのかもしれない。そのくらい、彼は苦しそうだった。
「……よかった……」
 ホープからエクレールへ。
 リングに刻まれていた名前は、彼と同じものだった。ということは、ここにいるホープこそがかつてのエクレールにリングを贈ってくれた人物なのだろうか?
 それがどういった経緯で渡されたものなのか、エクレールには分からない。かつての自分なら知っていたのだろうが、今のエクレールには記憶がない。気が付いた時には既にリングは指に嵌められていたからだ。
 知らない。知りようがない。分からない。……だけど、目の前のこの人が『私』という存在を想って抱きしめてくれているということだけは、なんとなく理解できたから。
 エクレールは目を閉じた。恐る恐る彼の背中に手を回してみる。
 広い背中だった。エクレールとまるで体のつくりが違う。胸はぺたんこだし、肩幅もある。おまけに首筋は太くて、声の高さはまるで違う。違いを挙げ始めたらきりがない。
 魔物をあっという間に倒してしまったかと思えば、こんな風に背中を丸めて震えてみせる。エクレールが背中に手を回すと、彼はいっそうしがみ付くかのように力を込めた。
 まるで雷の鳴った夜のモグみたいだ。怯えるモーグリのように必死でエクレールに掻き付くその人をなだめすかすようにエクレールは背中を撫でる。
「……大丈夫よ」
 私はここにいる。そう呟くように口にすれば、怯えを孕んだエメラルドグリーンがエクレールを見上げてくる。
「夢じゃない?」
「……うん。夢じゃない」
 そっか。呟くような微かな声。
 エクレールとホープというリングにその名を刻んだ二人は、しばらくの間そうやっていた。エクレールはホープのことをよく知らない。だけど、不思議と彼のことを突き放そうと思えなかった。
 同情していた、と言えばそれまでなのかもしれない。それでも、肩を震わせるこの人のことをどうしても放っておくことはできなかったのだ。
 いったいどれほどの時間、こうしていたのだろうか。彼の震えが止まったことを確認してから、エクレールはゆっくりと体を離した。
「……落ち着いた?」
「はい……」
 名残惜しそうに指先を離したその人が、エクレールの問いかけに照れ臭そうに頬を赤く染める。勇ましかったり、怯えたり。せわしなく感情を見せる彼の新たな表情に、なんだか新鮮な思いがした。思わずくすりと笑みが零れてしまう。
 なんとなく、落ち着かないようなそわそわとしてしまうような。そんな、不思議な空気感があった。もう少しこの空気を感じていたいような気もしたけれど、いつまでもこうしているわけにもいかない。
「あのね。私……あなたにとって多分、良くない知らせだと思うのだけど、二年前の記憶がないの」
 だから、あなたのことが分からない。このリングを贈ってくれたのが多分あなたというのは分かったのだけど……。
 そう口にするエクレールを前に、なんだか泣きそうに目を細めて、彼はゆっくりと首を振ってみせた。
「そんなことはいいんです」
 そうして、囁くようにして言葉を紡ぐ。
「あなたが生きてここにいる。……それだけで、十分なんです」
 心の底からそう思っているのだろう。彼は優しい表情をして、ただエクレールだけを見つめていた。真正面からそうやって誰かに見つめられることは初めてだ。熱を孕んだ視線を向けられて、エクレールの胸がどきりと音を立てる。何だか体が熱い。こんなことは初めてで、一体どうしたらいいのか分からない。
 まるで蛇に睨まれた蛙のように身じろぎ一つできないでいるエクレールの腹から、何とも情けない音が鳴ったのはそんな折だった。
「あ……」
 咄嗟に腹を押さえるものの、時すでに遅い。そう言えば、ずっと崖を登り続けて、食事どころではなかった。ぐうう、と追い打ちのように主張する腹を一生懸命押さえてみても、一向に収まってくれる気配はなく、エクレールはなんだか泣きそうになった。
 ホープの方はというと、きょとんとした表情になって必死に腹を押さえているエクレールを見ている。それがまた、ものすごく恥ずかしいのだ。……モーグリ相手ではここまで恥ずかしくはならなかったのに。
「食事にしましょうか」
 言葉と共に零された苦笑がまた居た堪れない。顔を伏せたまま、エクレールはこくりと頷くことで応えてみせたのだった。
「町まで行くのは時間がかかりすぎますから、こいつを捌いちゃいますね」
 ちょっと待っていてください。彼はそう口にすると、先ほど倒したばかりの鳥の魔物を前にした。そうして懐からサバイバルナイフを取り出したかと思ったら、次の瞬間、その骸に刃を突き立ててみせたのだ。
「っ」
 ホープの予想外の行動に、エクレールは咄嗟に唇を手で押さえた。
「な、何を……」
「こいつの肉を捌くんです。どうかしましたか?」
「に、肉を食べるの……?」
 エクレールが知っている『食べられるもの』はキノコやシルキスの野菜、木の実や花の密、豆といった、せいぜいその程度のものだ。だから、奪った命を食べるだなんて行為は知りもしなかった。そもそも、エクレールに食事を教えてくれたモーグリたちは基本的に争いを好まない種族なのだ。
「嫌ですか?」
 明らかに躊躇しているエクレールを前に、ホープは少しばかり考え込む仕草をしてから訊ねてきた。生き物を殺すのも、それを食するのもエクレールは見たことがない。
 魔物を倒すだなんてモグの前ではそう言い切ってみせたけれど、実際に対峙してみるとまるで動くことができなかった。その時のことを思い出して、エクレールはぐっと唇を噛みしめる。
「分からないわ。……だって、食べたことないんですもの」
「でしたら食べてみませんか?」
「え?」
 項垂れるエクレールを前に、彼は穏やかに微笑んで口にする。
「食べてみたら案外好きかもしれませんよ? もちろん、嫌いかもしれません。こういうものは、やってみなければ分からないものですよ」
 もっともな言葉だ。魔物を倒すだなんて大見得きって、結局エクレールは何もできないでいた。口にすることだけなら誰だって簡単にできることなのだ。その身を挺してエクレールを救おうとしてくれたモグのように、実際に行動を起こしてみなければ何も始まりはしない。
 何より、ヒトがどういうものを口にするのかということはエクレールにとって知らなければならないことだった。
「……食べてみるわ」
「了解です」
 そう口にして、彼は再びナイフを握り直す。そんなホープにエクレールは慌てて「待って!」と声をかけた。怪訝な表情になって振り返る彼を前に、エクレールは微かに震える指先を握りしめて顔を上げた。
「私も捌くのを手伝わせてほしいの」
 駄目かしら。伺うようにそう尋ねれば、彼はきょとんとした表情になって、それから「もちろん」と目を細めてみせる。
「そう言えばそのナイフ……」
「え?」
 エクレールの手の中にあるナイフに視線を落として、彼は驚いたように目を丸くしたのが分かった。
「記憶を失くす前から持っていたものらしいの。あなたは……えっと、ホープは知っているのかしら?」
 なんとなく彼の反応から、そういう気がしたのだ。小首を傾げるエクレールを前に、ホープが弱ったように頬を掻いた。
「そうですね。よく知っていますが……それをお話しするには少し恥ずかしいというか」
「恥ずかしい?」
「ええ。長い話になりますから、それらは追ってお話しますよ」
 そこまで口にして、ホープはもう一度エクレールの手の中にあるナイフに視線を向けた。
「……本当にお守りだったんだな」
 独り言のようにそう呟く。その言葉に、エクレールは反射的に唇を開いていた。
「ナイフ一本あれば、人はどこでも生きていけるって話もあるくらいから」
「え?」
「あれ、私……?」
 驚いたようなエメラルドグリーンの瞳を前にして、ようやくエクレールは自分が不自然なことを口にしていたということを理解した。こんな言葉は、少なくともモーグリの里で暮らしていた時は聞いたこともない。それなのに、まるで滑り出すようにごく自然に、エクレールの口の中から出てきたのだ。
「嫌だわ、変なことを喋っちゃった」
 こんなことは初めてだった。戸惑いながらもエクレールは気持ちを切り替える様に頭を振って、ホープへと向き直った。
「ええと、やり方を教えて貰えないかしら」
「……」
 その時のホープがどういう表情をしていたのかはエクレールには分からなかった。彼は下を向いていて、その表情は髪の下に隠れていたからだ。やがて顔を上げてみせた彼は、エクレールに応える様に「そうですね」と笑ってみせた。
「それじゃあ、順を追ってお話します。とは言ってもこの魔物は大きいですから、食べられる部分だけを頂くことにしましょう」

   * * *

 エクレールの初めての鳥捌きは、多少危なっかしくはあったものの、最終的になんとか様になった形で終了した。相手はそれなりに大きい獲物だったのだが、何度かの試行錯誤を経て、ようやくコツのようなものを掴めたように思う。
 ホープはエクレールにとって良い師範だった。彼は一部分を例として剥ぎ取ると、エクレールにも同じことをするようにと促してみせた。結果として、エクレールはホープの手順を真似する形で羽を毟り終えたのだ。
 最初の内は、生々しい血と獣の匂いに顔をしかめていたものの、時間が経てば案外慣れてしまうものだ。ホープに「お上手ですよ」と褒められたのは、素直に嬉しかった。記憶を失う以前は魔物相手に戦ってみせたというらしいし、案外自分はこういうことに向いているのかもしれない。
 気絶していたモグが目を覚まして、べったり両手に血を付けているエクレールを前に卒倒してしまったのは余談として付け加えておこう。川辺で手を洗い終え、生肉を焚火で炙って、いい匂いが辺りに漂い始めた頃になって、モグは再び目を覚ました。
「クポ……?」
「良かった。目が醒めたのね」
「モグは眠っていたクポ?」
「うーん。正確に言うと、魔物に飛ばされて気絶していたのよ」
 血糊を見てひっくり返っていたことは忘れているようなので、この際触れないでおく。
「クポッ!? そうクポ! エクレール、無事クポ!?」
「大丈夫よ、モグ。この人……えっと、ホープが私たちのことを助けてくれたの」
「はじめまして。ホープです」
 エクレールの後ろからホープが顔を覗かせる。そんな彼を前に、モグは先ほどまで眠っていたことが嘘のように軽やかに飛び上がってみせた。
「それはありがとうなのクポ! モグはモグクポ! 助けてくれて感謝クポ~!」
 ポンポンからきらきらと飛沫のような光が飛び出す。そんな不思議な光景に、ホープは驚いたようにエメラルドグリーンの瞳を瞬かせた。
「すごい、本当に動いているんだ……」
「モーグリは初めてクポ? よろしくクポ!}
「うん、よろしく」
 モーグリを前に、ホープもまたにこにこと相好を崩す。外は危ないと口にしていたから、ホープに対するモグの反応が少し心配だったものの、この調子なら大丈夫そうだ。エクレールは安堵の息を吐くと、モグに体を向けた。
「今ね、ホープが料理をしてくれているの。さっき倒した魔物を焼いて食べるんだって」
「クポッ!? 魔物を焼いちゃうクポ!?」
「うん。びっくりだよね」
 私とモーグリのやり取りを前に、ホープは困ったように頬を掻いている。そんなに変なことのはずじゃないんですけどね。彼はそう口にしているものの、エクレールもモーグリも初めてのことなのだ。どうしても物珍しさの方が勝ってしまう。
「そろそろ焼けたみたいですよ」
 焚火で串焼きにしていた肉を前に、ホープが声を上げる。確かに彼の言うように、魔物の肉からは香ばしい匂いが漂い始めていた。ホープは焼く前にすり潰した木の実のようなものを振りかけていたが、どうやらその匂いも混じっているらしい。ぐうう、と鳴りを潜めていたはずの腹の虫が再び主張し始めたのが分かる。
「はい、どうぞ。熱いので気を付けてくださいね」
 串に刺さった肉を手渡される。生の時は赤々しかった肉は、火を通すことで焦げ目が付いていて薄らと白い湯気が立っている。独特の香ばしい匂いに思わずごくりと喉が鳴った。
「モグの分もどうぞ」
「ありがとうクポ!」
 モグにも行き渡ったようだ。ホープも串を手に取って、それから「いただきます」と行儀よく口にする。そういった習慣はモーグリたちと同じらしい。エクレールも彼に倣って食前の挨拶を口にした。
「さあ召し上がって下さい」
 自らの手で初めて捌いた魔物の肉は、いったいどんな味がするのだろう。どきどきとしながら、エクレールは四角くカットされた肉の塊を口に運んだ。
「……!」
 その舌触りと口当たりに、エクレールは思わず目を丸くした。串焼きにしたことで余分な脂身が落ちて、旨味がギュッと凝縮されているような気がする。肉の上に振りかけられている木の実がまた、実によい塩梅なのだ。口の中でスパイシーな味わいが広がるのがたまらない。一つ口にするだけでは足りず、二つ、三つとあっという間に肉はエクレールの口の中に吸い込まれてしまった。夢中で食べてしまったので、あっという間に無くなってしまったくらいだ。
「どうでしたか?」
「おいしいっ!」
 ホープの問いかけに、エクレールからは満面の笑みが零れ落ちる。
「お肉がこんなに美味しいなんて思わなかったわ!」
「ふふ、満足して貰えたみたいで僕も嬉しいです。おかわりはいりますか?」
 差し出された新しい串に、ほとんど条件反射のようにエクレールはこくこくと頭を縦に振った。受け取った新しい串も夢中になって頬張っていく。あまりにも勢いよくがっつきすぎたせいで熱々の肉で火傷しそうになったくらいだ。
「あつっ……」
「お水です。慌てて食べなくても、まだまだありますから」
 はふはふと息をするエクレールを前に、まるで見計らっていたかのようなタイミングで、さっと水が差し出される。先ほどホープと一緒に泉で汲んできた水だろう。木の葉をくるんで作られたカップの水を飲み干して、ようやくエクレールは一息ついたのだった。
「不思議……。戦った時はあんなに怖かったのに、お肉になるとこんなに美味しくなっちゃうなんて」
 思わずしみじみとしてしまう。そんなエクレールの言葉にホープがぷっと吹き出すのが分かった。
「そんなに笑わなくたっていいじゃない」
「ふふ、あははっ……いや、エクレールさんのコメントが可笑しくって」
 よほど面白かったのだろう。しまいにはお腹を抱えてひいひいと声を上げている。そんなに変なことを口走ってしまったのかと、こちらが恥ずかしくなってしまうほどだ。
 こうなったらそこに刺さっているお肉を全部食べ尽してしまおうかしら。そんなことを考えながら、ふとエクレールはホープが先ほどと異なる呼び名を使っていることに気が付いた。
「そう言えば、エクレールって呼んでくれるのね」
「え?」
「ほら、ホープってば、最初に会った時、私のことを『ライトさん』って言っていたわよね。それって何か愛称みたいなものかなって思ったのだけど……」
 現にそこで串を手にしているモグは、モーグリ族だからという理由でモグという名前を付けたそうだ。そういうものがヒトにもあるのかと思ったものの、エクレールとライトでは言葉の響きがまったくもって違う。呼ばれた本人としては気になるものだ。
「よく気が付きましたね」
 目を丸くするホープを前に、エクレールがえへんと胸を張る。
「ホープと会った時のことだもの。ちゃんと覚えたいわ」
「……そう、ですか」
 てっきり喜んでくれるだろうと思っていたのに、対するホープの返事は煮え切らないものだった。なんとなく勢いを削がれたような心地になって、エクレールもまた肩を落とす。そんな彼女を前に、ホープはゆっくりと当時を懐かしむような口調になって唇を開いた。
「ライトさんと言うのは……昔、エクレールさんがそう呼んでいいって言ってくれたコードネームのことなんです」
「コードネーム?」
 ええ、とホープは頷いて言葉を続ける。
「エクレールがあなたの本名であることは変わりません。ですが、当時のエクレールさんはライトニングと名乗っていたんです」
「ちょっと待って」
 ホープがさらりと語った言葉は、エクレールにとっては思いがけない自分の過去だった。エクレールという名前を持った人間が、ライトニングと名乗るようになる。
「ほとんど名前が別物じゃない……」
 一体昔の自分は何がどういう思考になってそんな名前を付けたのだろう。エクレールはここ二年という時間を、モーグリの里で過ごしてきた。思考は単純明快、誰かを欺く必要もなく、ありのままの素の自分で過ごす環境に身を置いていたエクレールにとって、それは理解の範疇を越えた行動だったのだ。
「エクレールというのは古い言葉で『稲妻』を意味するそうです。だから、同じ『稲妻』という意味を持つライトニングという名前にしたのではないでしょうか」
「な、なるほど……」
「というのは、以前エクレールさんが使っていた武器に彫ってあった言葉から推測したのですので、ご本人から聞いたわけではなかったんですけどね」
「待って? 武器に彫ったの!?」
 さらりと暴露された内容に、今度こそエクレールは目を剥いた。動揺しすぎて声がひっくり返ってしまったほどだ。慌てて咳払いをするエクレールにホープは苦笑を零しながら、鞘から先ほど握っていた武器を取り出してみせた。
「こちらです」
 磨き抜かれた鏡のような表面に『白き閃光 唱えよ我が名』と妙に仰々しい文字が彫り込まれているのが見えたような気がして、エクレールは思わずくらりとした。呪文のように続く言葉こそが、恐らくホープが口にしていた――ライトニング。
 確かにそう考えると分からないでもない。分からないでもないが、今の自分にはどうひっくり返っても理解できなかった。
「素直に名乗ればいいのに……偽名を使う必要でもあったのかしら」
 それにしたって、凝りすぎだとは思うけれど。遠い場所を見るような眼差しになったエクレールを前に、ホープは昔を懐かしむように目を細める。
「エクレールさん……いえ、かつてのライトさんにはそうする必要があったんですよ」
「そういうものなのかしら」
「ええ」
 自分の事のはずなのに、まるでどこか他人の話のようだ。かつて自分がどうしてそんな行動をとったのか、エクレールにはどうしても理解できなかった。むしろ、過去の自分の行動を恥ずかしいとさえ思ってしまう。
 どうにも肩肘張っているというか、背伸びばかりしているように聞こえてしまうのだ。せめてもう少し自然体でいることはできなかったのだろうか。
「……だからホープは私のことをエクレールって呼んでくれるのね」
 ホープはエクレールのその言葉に返事をしなかった。代わりに穏やかな表情を浮かべて「そう言えば」とまるで世間話を切り出すように口を開いてみせる。
「これからエクレールさんはどうされるつもりなんですか?」
 尋ねるホープの言葉に、質問を投げかけられたエクレールはううんと考え込んだ。ぱちり、とほとんど墨になった焚火が爆ぜる音がする。
「そうね……」
 きっかけは『ホープからエクレールへ』と彫りこまれたリングだった。知らぬ誰かからエクレールへ宛てた贈り物。それは、モーグリの里の中で完結していたエクレールにとってまだ見ぬ新しい世界だったのだ。
 自分が何者なのか知りたい。外の世界を見てみたい。次第にそんな気持ちが膨らんでいったのは、エクレールの中では自然なことだった。そうしてモーグリの里を飛び出したその先で、何の偶然なのか分からないけれど、リングの贈り主であるホープと出会った……。
「私はもっと世界を知ってみたいわ。今までモーグリの里の中だけで生きていたの。確かに満ち足りた世界だったけど、私が以前どんな風にこの世界を歩いて、見て、考えていたのか触れてみたいわ」
「……昔の話を聞いても、実感できない?」
「そうかもしれないわね。多分、昔の私と今の私は全然違うんだと思う。物事への感じ方もそうだし、もしかしたら喋り方も違うのかもね。ホープの話だって、なんだか他人事みたいに聞こえちゃったもの」
 せっかく話してくれたのに、気分を悪くしてしまったらごめんなさいね。そう言葉を続けたエクレールを前に、ホープはじっと視線を向けるばかりだった。
「エクレールさんは……ライトさんだった頃の記憶を取り戻したいとは思わないんですか?」
 彼のエメラルドグリーンの瞳の中には、エクレールの姿が映り込んでいた。まるでガラス球みたいだと思う。とても綺麗で澄んでいて――吸い込まれてしまいそうな気さえしてしまう。
「そうね……」
 エクレールはそう呟いて、唇に手を当てた。
「知りたいとは思う。だけど、ライトニングの思考が私と重なることはないような気がするの。近くて遠い他人……そんな感じがするって言ったらいいかしら」
 憶測だけどね。エクレールはそう口にして苦笑する。
 かつてエクレールはライトニングだった。その頃の自分がどんな風に生活していて、どんな風に誰かと触れ合ったのかということに興味はある。だけど、あくまでそれは過ぎ去った『ライトニング』の過去であって、自分のこととして受け止めることができるとはエクレールには到底思えなかったのだ。
「多分、私は嫌な思いをホープにさせているわね」
 ホープからエクレールへ。
 そう名前を彫り込んで相手に渡すという行為が、どういう意味を持つものなのかはエクレールにとって分からない。だけど、名前を刻むというその行為が、けして気軽に行えるようなことではないような気がするのだ。エクレールと出会ったホープの様子を思い出しても、ただ懐かしい人と会ったという反応ではなかったように思う。
 きっとホープはライトニングのことが大切だったのだろう。そんな彼に対して、ライトニングとエクレールが重なることはないと口にしたのだ。ある意味で、もはや別人だと宣言したようなものだ。酷なことを告げたという自覚はあった。
「私は旅を続けるわ。助けてくれてありがとう。……あなたのこと、忘れないわ」
 これ以上はきっと彼を傷つける。話ができて嬉しかった。初めて出会ったヒトが、ホープで良かった。感謝をしているからこそ、引き際は見極めなければならない。それでも、後ろめたさからエクレールはホープのことをまっすぐに見れないでいた。
「……言ったじゃないですか」
 そんなエクレールを前に、彼は穏やかな口調だった。
「あなたが生きてここにいる。……それだけで、十分なんだと」
 はっと息を呑んで、エクレールは顔を上げた。視線の先には、変わらぬ微笑を浮かべたホープの姿がそこにある。
「私が私でいてもいいの?」
 ホープが望んでいるライトニングにはなれない。そんな酷い言葉を投げつけたというのに、彼は笑っていたのだ。
「確かに寂しくない……と言えば嘘にはなってしまいますけど。あなたが笑っている顔を見れることの方が、僕にとっては大切なことなんです」
 そう口にして、ホープはエクレールの指先を手に取った。
「あなたが忘れてしまったのなら、もう一度思い出を作っていけばいい。……また、会う事ができたんですから」
「ホープ……」
 真摯に見つめてくるエメラルドグリーンの瞳を見ていると、なんだか吸い込まれてしまいそうだ。胸の奥がどくりと鼓動を打つのが分かった。ホープのことを見ていると、不思議と顔が熱くなって、胸が苦しくなってしまうのは一体どうしてなのだろう?
「僕は今日あなたと会って、喋って、一緒にごはんを作れて嬉しかったです。エクレールさんはどうだったんですか?」
 尋ねる彼の言葉に導かれるようにしてエクレールもまた、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「魔物をあんな風に捌いて、焼いて。ホープと一緒にお料理をして、食べるのがこんなに楽しいんだって思ったわ」
「僕も」
 囁くようなホープの声が聞こえる。
「僕も、あなたと一緒に……ずっとこんな時間が続けばいいって思いました」
 胸の奥がきゅうっと強く痛くなる。今すぐ逃げ出してしまいたいのに、もっと傍に居たいような。そんなちぐはぐな気持ちが体の中でぐるぐると渦巻いていて、どう口にしていいのか分からない。ぱくぱくと酸欠の金魚のように口を開いては閉じている今の自分は、きっと酷い顔をしているに違いない。
 どうしてこんなことになってしまったのか見当がつかなくて、エクレールは途方に暮れて俯いた。
「エクレールさん?」
「ホープ、だめ……。あなたを見ていると、胸の奥が苦しくなって、それからどきどきするの。私、変な病気になってしまったかもしれないわ」
 こんなことははじめてで、一体どうすればいいのか分からない。伺うようにホープを見上げれば、彼は驚いたようにエメラルドグリーンの瞳を丸くさせる。何とも言い難い沈黙が二人の間に落ちていた。視線を絡め合ったまま、言葉を発せられずにいる二人の間に割って入ってきたのは、長らく串と格闘をしていたモーグリだ。
「ク~ポ~ッ!」
「も、モグ?」
 名残惜しいような、助かったような。ホープから視線を外して顔を赤らめたエクレールが、両手を振り上げて主張するモーグリに顔を向ける。
「モグは…モグは……お肉が食べられないクポ……」
 悲しそうなモグの手の中には、ほとんど形を残した肉の塊が残っている。エクレールがおいしいと串のおかわりをしている横で、モグはずっと最初の一本目と格闘していたらしい。
「美味しくなかった?」
 尋ねるホープを前に、しょんぼりとモグが項垂れる。
「お肉はモグの口に合わなかったクポ……」
 エクレールが美味しいって言っていたから、モグも美味しく食べたかったクポ。そう口にしているモーグリは、心底肉が口に合わなかったことに残念がっているようだ。「せっかく作ってくれたのにごめんなさいクポ」と謝るモグは可哀想だったが、このタイミングで話に割って入ってきてくれたことにエクレールは内心ほっとしていたのだった。
「クポ? エクレール、顔が赤いクポ?」
「な、何でもないわ。それより、モグ。これからのことなのだけど……」
 首を傾げるモーグリを前に、エクレールは慌てて手を振って声を上げる。
「せっかく崖の上まで来れたし、このまま先に進もうと思うのだけど、モグの話だと北の方にヒトが住んでいた場所があるんだっけ?」
「むかしむかし、住んでいたことがあるという言い伝えが残っていたクポ!」
「もしかして、それはヤシャス山のことですか? それなら確かにパドラの遺跡が残っていますが……」
「クポ! きっとそれのことクポ!」
「パドラはかつて栄えた都だったそうですが……今では廃墟になっています」
 飛び上がったモグを前に、ホープが困ったように眉根を寄せる。彼の口ぶりから察するに、パドラはとうの昔に滅んでしまったらしい。
「最近はアカデミーの調査隊が出入りするようになったので、一応人がいることにはいます。ですが、次の行き先を決めあぐねているのでしたら、おすすめしたい場所がありますよ」
「おすすめ?」
 オウム返しに口にしたエクレールを前に、ホープは「ええ」と微笑んでみせる。
「ネオ・ボーダム。パルスに新しくできた港町の名前です」
 町というよりは集落、と言った方が正しいですけど。海の近くにあって、そのロケーションに惹かれる人の出入りが増えているんですよ。そう口にしたホープの言葉に、モグが不思議そうに首を傾げる。
「海ってどんなものクポ?」
「水がたくさん集まっているところです。広くて、青くて、しょっぱいんです」
「クポ! それは気になるクポ! ……エクレール?」
 ホープの言葉にポンポンを揺らしていたモグは、エクレールを見上げて首を傾げた。いつもなら彼女の方がこういった話題には飛びつくはずが、なぜかだんまりを決め込んでいる。疑問符を浮かべるモグの身体にエクレールは手を伸ばすと、彼のふわふわの身体を抱き寄せた。
「クポ?」
「なんだか懐かしい気がする名前だわ……」
 そう口にして、モグを抱きしめる手にきゅっと力を込める。モグは「苦しいクポ~」と抗議の声を上げた。すぐに解放されたものの、エクレールがこういう仕草をする時は決まっている。
「あなたに縁のある場所です。……どうでしょう?」
 尋ねるホープの瞳は、ただ真っすぐにエクレールを見ていた。
 何度見ても吸い込まれそうな色だと思う。エクレールのことだけを見つめているその眼差しを向けられると、不思議と世界が自分と彼だけのものになったような錯覚にさえ陥ってしまう。
 エクレールは唇に手を当てて考え込んだ。
 かつてヒトが住んでいたというパドラの都。そして、エクレールに縁のある場所であるというネオ・ボーダム。二つの町を天秤にかければ、自然と答えは出た。
「……ネオ・ボーダムに行くわ」
 きっかけは、左手の薬指に嵌められていたリングだった。ホープからエクレールへ。贈られたリングに彫り込まれていたその名前から、かつての自分がどんな風に過ごしていたのか知りたくて、エクレールはモーグリの里を飛び出した。
 とは言え、まさか飛び出して一日も経たないうちに贈り主であるホープと出会うことになるとは思ってもみなかった。おかげで色んな事の順番が変わってしまったけれど、エクレールが知りたいのは今の世界のことだ。だったら、選択肢は最初から決まっていたも同然だった。
「どこにあるのか教えて貰えないかしら」
 そう尋ねるエクレールを前に、ホープが口元を緩めるのが分かった。彼にはまるで答えが分かっていたかのようだ。そんな気さえしてしまう。
「それはもちろん構いません。ですが、ネオ・ボーダムはここからかなり距離がありますから、地図があったとしても辿り着くまで大変でしょう」
 道中魔物も出ますしね。そう続いたホープの言葉に、エクレールはうっと言葉を詰まらせる。長い旅路となると、魔物と遭遇する危険性は比例して高くなるだろう。今回はたまたま運が良かった。今後のことを考えれば何らかの対策を取って然るべきだ。
「エクレールさんさえ良ければ、僕と一緒に行きませんか?」
 元々、ネオ・ボーダムに向かう用事があるんです。一緒なら道案内もできますし、道中の疑問にもお答えできる範囲でお答えしますよ。
 ホープの言葉はエクレールにとっては渡りに船だった。外の世界が初めてのエクレールにとって(モグも似たようなものだ)は分からないことだらけに違いない。そんなエクレールたちにとって、外の世界をよく知るホープのフォローがあるとすれば、かなり心強いというものだ。何より、腕が確かな彼がいてくれれば、魔物に襲われてもなんとかなるだろう。エクレールとしてはこれ以上ない破格の条件だ。
「モグたちはとっても助かるクポ!」
「……でも、それじゃあ私たちばかりが得をしているわ」
 ホープにとってメリットらしいメリットがないじゃない。人が増えれば移動にも時間がかかるだろうし、余計に魔物を相手しなければならない場面もあるだろう。口にしてみると、ますます彼がエクレールたちを助ける必要性を感じない。要するに、自分たちはお荷物なのだ。
「そんなことはありません。元々僕は一人で行こうと思っていましたが、モグとエクレールさんと一緒ならお喋りもできるし、何より楽しいと思うんです」
 時間には余裕がありますから、チョコボで色々見て回りながら進もうと思っていたんです。そう口にするホープの言葉は、言われてみればもっともで、エクレールも頷くしかなかった。
「そういうことなら……」
「お互いお得なのクポ!」
 一人ぼっちで旅をするより、誰かと一緒の方がずっと心強い。だからこそ、エクレールはモグが一緒に来ると口にした時、嬉しかったのだ。ホープが口にした言葉は、そういうことだった。何より彼と一緒ならば、昔のことを含めて、道中色々と聞くこともできるだろう。
 ……だけど、それってホープにとっては辛いことにはならないのかしら。
 その言葉は、口にすることはできなかった。ただ生きて、ここにいるだけでいい。ライトニングのことを知らない誰かのようだと口にしたエクレールを前に、そう笑ってくれたホープを想うと、どうしても続けることはできなかったのだ。
 悩んでも結論がでる話でもない。エクレールは顔を上げた。
「それじゃあ、ネオ・ボーダムまでお願いできるかしら」
 そんなエクレールの憂いなどまるで気付く素振りも見せず、ホープはにっこりと破顔する。
「決まりですね」
 かくしてエクレールの旅路には、モグに続いてホープが加わることになった訳だった。
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