2019.04.23 公開
2019.07.07 修正

#8

「エクレール!」
 背中からかけられた声に、彼女――エクレールは足を止めて振り返った。案の定、そこには白くてふわふわした妖精モーグリの姿がある。モグと名乗る彼との付き合いもすっかり長くなったもので、彼がご機嫌ななめであることはその雰囲気で理解することが出来た(モーグリは基本的には表情が変わらない)。あちゃあ、と内心頭を抱えながらも、エクレールは表情にはおくびも出さずにっこりと笑う。
「モグ、どうしたの?」
「どうしたの、じゃないクポ! また崖に行っていたクポ!」
 登るのは危ないクポ! 落ちて怪我したら心配クポ~っ!
 心からエクレールのことを案じているのだろう。ポンポンを揺らしながら、モーグリが一生懸命声を上げている。
 そうやって心配してくれることが分かっていたから黙って出ていったのだけれども、そこまで気が付かれてしまっているようなら、誤魔化しても仕方ない。
「……ごめんね、モグ」
「だったら無茶しないでクポ……。エクレールは足の後遺症も残ってるクポ。エクレールが落ちちゃうと思ったら、モグ、モグ……」
 口にして、その場面を想像してしまったのだろう。モグがぶるぶると身震いしている。抜け出したことを知れば心配性な彼がこうなることは予想できていたから、なるべくこっそりと抜け出したはずだったのだが、どうやらばれてしまっていたらしい。優しい友人が心を痛めていることに「ごめんね」ともう一度だけ口にして、エクレールは「でも」と言葉を続けた。
「私、どうしても崖の上まで行ってみたいの」
「危ないクポ!」
「大丈夫よ。奥の方に上に繋がっているらしいロープを見つけたの。それを辿ったら、結構登れちゃうことが分かったのよ」
「全然大丈夫じゃないクポーッ!」
 エクレールはモグたちみたいに飛べないんだから、落っこちちゃうと大変クポ! 声を荒げるモグを前に、エクレールは「あら」と胸を逸らせた。
「落ちなければいいのよ」
「解決してないクポォ……」
 里の中で大騒ぎをしていたためだろう。騒ぎを聞きつけた野次馬モーグリたちが、エクレールとモグの中心に次々と集まってくる。
「どうしたクポ?」
「喧嘩クポ? 仲良くするクポ!」
「クポーッ! お歌を歌うクポ」
「踊るクポ!」
「これで仲良しクポ!」
「全然違うクポーッ!」
 白い妖精たちに飛びつかれてもみくちゃにされているエクレールを前に、モグが再び大声を上げる。散るクポ! もはやすっかり手慣れたもので、世話人モグが荒ぶると、野次馬モーグリたちはクポクポと口にしながら蜘蛛の子を散らしてしまった。
「全然落ち着けないクポ。モグの家に来るクポ」
 そこでちゃんと話をするクポ! そう口にして、モグがちっちゃな手のひらを差し出してくる。すっかり慣れたもので、エクレールもまた人差し指でモグの指先を握り返す。そうすれば、大きさがまるで違う一人と一体でも手を繋ぐことができるのだ。
 エクレールが大怪我をして里に運ばれてきてからというもの、モグはまるで血を分けた兄妹のように接してくれる。モグだけでない。この里のモーグリたちは、どれも気のいい妖精たちで、何かとエクレールのことを気にかけてくれる。思わず笑みを零すエクレールの胸元で小さなリングが揺れた。視線を落として、エクレールは目を伏せる。
(ごめんね、モーグリ)
 瞼を閉じれば温かいモグの感触が伝わってくるのに、自分はモーグリ不幸者だ。三度目の謝罪を胸の内で呟きながら、エクレールは顔を上げた。
(……それでも私は崖の上に登りたい)
 思い出すのは初めてモグと出会った日の事だった。二年前の出来事を、今でも鮮明にエクレールは思い出す。

   * * *

「私は……誰?」
 そこまで口にして、私は愕然とした。
 自分の名前を思い出すどころか、何も思い出せないのだ。まるで雪原の中を歩いているかのようだった。見渡せども見渡せども、自分がなぜここにいるのか分からない。
「クポ? 分からない……クポ?」
 目の前では得体のしれない白い生き物が、先ほどから不思議そうに首を傾げている。しかも、ただ立っているわけでもない。ふわふわと宙に浮かんで私のことを覗き込んでいるのだ。
「っ」
 ほとんど反射的に体を捻ろうとした私の全身に鋭い痛みが走った。そのあまりの激痛に目尻に涙が浮かぶほどだ。
「まだ動いちゃ駄目クポ! すっごく酷い傷を負っているクポ!」
 目の前の不可解な生き物に諭されてしまう。一体、何がどうなっているのだろう。頭の中が疑問符だらけな私を他所に、この小さな生き物はせっせと藁でできた寝床を整えると、部屋の隅から小さな木の器を持ってきた。
「お水クポ! まずはこれを飲んで落ち着くクポ!」
 ほとんど促されるままに私は水を口に運び、そして咽た。咳き込むと傷を負っているらしい体のあちこちが痛む。水が気道に入って苦しいのと痛みとで体を丸める私の背中を、小さな生き物は一生懸命撫でてくれた。献身的なその姿に、ゆっくりと警戒心が解けていくのが分かる。
「……大丈夫クポ?」
「うん。もう大丈夫……」
 返事をしながら、私は空になった器を持つこの小さな生き物に視線を向けた。
「クポ?」
 よほどじっくりと見てしまっていたのだろうか。生き物は不思議そうに丸くて白い頭を傾げている。触ってみたら柔らかそうだ。
「ク、クポ! どうしたクポ!?」
 試しに掴んでみた。……思った通り、柔らかい。おまけに体温が高いのか、抱きしめると体がぽかぽかとする。最初は珍妙な生き物かと思ったものだけれど、よく見れば結構可愛い顔をしているような気さえしてきた。
「クポ~、苦しいクポ」
「あ……ごめん」
 どうやら強く抱きしめすぎていたらしい。胸の中に埋もれていた生き物は、解放されると同時にぱっと距離を取って逃げ出してしまった。……抱き心地良かったのに。そんな私の心境など知りもしない生き物は「クポッ」「クポッ」と咳払い? らしきものをしている。
「改めて、モグはモーグリのモグクポ!」
「モーグリのモグ……?」
「きみはモーグリは初めてクポ?」
「初めて……だと思う。でも私、色んな事が思い出せないわ……」
 モーグリのこと以前に、私は自分に関する記憶の何もかもが一切合切抜け落ちているようなのだ。何度過去のことを振り返ろうとしても、まるで闇の中を覗き込んでいるかのようだった。
「生まれたお里のこと、思い出せないクポ?」
「……そう、みたい」
 これまでの私がどこで何をしていたのか。どんな名前を持っていたのか。そういったことさえ心当たりがないのだから、手の打ちようがない。本当に、何もかもを思い出せないのだ。
「クポッ! このナイフは手掛かりにならないクポ?」
「ナイフ……?」
 名案と言わんばかりに飛び上がったモグが、部屋の奥から小ぶりな金属を抱えて帰ってくる。
 その金属は、確かにモグが口にしたようにナイフだった。今の私は物の価値がよく分からないのだけど、それでも多分、いいものなのだろう。小ぶりで装飾は必要最低限のシンプルなものだったけれど、刃こぼれ一つしていない。持ち上げてみれば思った以上に軽く、手の中にしっくりと馴染むような感触がある。
「倒れる直前に、魔物と戦っていたクポ! その時使っていたナイフクポ」
「魔物……」
「それも覚えていないクポ?」
「ええ……。魔物と戦っていたって言われても、よく分からないわ」
 そもそも魔物、という言葉がどういう意味を持つのかよく分からない。前後の会話から、あまり良くないものらしいというのは分かるのだけど、どうやって私が戦っていたのかということは思い出すことができなかった。
「ということは、やっぱりナイフは手掛かりになるかもしれないクポ!」
 モグの言葉に私ははっとして顔を上げる。
「そうだわ! 記憶を失くす前の持ち物だとしたら、何か手掛かりがあるかも……」
 手の中のナイフをつぶさに観察してみる。金色の金具に黒の皮張りの取っ手。磨き抜かれた銀色の刃の背の部分にはセレーションが付いている。見るからに質の良いものなのだから、もしかすると何か身元が分かるようなものが彫り込まれているかもしれない。期待を込めてナイフを隅々まで確かめてみたものの、残念ながら手掛かりになりそうなものは見つからなかった。
「駄目ね……。見つからないわ」
 ナイフを藁の上に置いて、私は顔にかかった髪を払った。なかなかうまくいかないものだ。その時、不意に左手の薬指に何か嵌められていることに私は気が付いた。
「これ……何かしら?」
 銀色に光る輪っかをまじまじと見ていると、リング、という単語が頭の中に浮かんできた。先ほどのナイフといい、どうやら私は自分の生い立ちや関わった生き物のことは思い出せないものの、生活に直結するようなものや、身に着けているものの名前は認識できるらしい。
 光るキノコによって薄らと輝いて見える狭い室内で、私はリングを透かしてみた。その裏側に何か彫り込まれているのが分かる。
「何か書いてあるわ」
「読めるクポ?」
「待って……読んでみる」
 彫り込まれているものが文字である、ということは認識できた。認識できるなら、読める可能性は高い。
「ホ……プ?」
 かなり小さい文字なので、読み上げるのは至難の業だった。よほど腕のいい職人が彫り込んだか、高い技術力を持って仕上げられたものなのだろう。何とか文字を拾ってみると、どうやらそれは名前のように見えた。
「ホープ、から、エクレール、へ……?」
「贈り物クポ?」
「そうなのかも。ホープって人からエクレールに贈られたもの、と考えるのが自然ね」
「きみがリングを持っていたクポ! ということは、きみの名前は……エクレール?」
 エクレール。そう言われてもいまいち実感は伴わないのは私が記憶を失くしてしまっているからなのだろうか。エクレール。……エクレール。口の中だけで反芻してみる。うん、響きは結構可愛い気がする。
「どっちにしても名前が分からないと不便だと思うから、エクレールって名乗ることにするわ」
「分かったクポ!」
 私の言葉にモグは二等身の大きな頭を振って応えると、言葉を続けてみせた。
「エクレールはこれからどうしたいクポ?」
 どうしたいか。そう尋ねられても、私はどうやら記憶喪失らしいので目的らしい目的がない。今までどんな風に生きてきて、何をしていたのか手掛かりらしいものもほとんど見つかっていないのだ。このリングがなければ、名前だって分からなかった可能性が高い。
 素直に考えるのならば、過去の自分が何をしていたのか調べるという道があるのだろう。私は何者なのか。ある日突然思い出せるかもしれないし、そうではないかもしれない。未来が未知数なのであれば、過去の足跡を辿るというのはけして悪くない選択だ。……だけど、今はそれよりも。
 ぐうう、と間の抜けた音が響き渡る。咄嗟に私はお腹を押さえたものの、すでに解き放たれてしまった腹の虫は一向に収まる気配がなかった。こんなに鳴かなくったっていいのに。音も大きくて、それなりに恥ずかしい。
「……ごはんが食べたいな」
「お腹がすくのは元気になってきてる証拠クポ。まずは腹ごしらえクポ!」
 私の言葉に、モグはクポッ! と元気よく飛び跳ねる。そうしてモグは怪我で動けない私のために自慢のキノコ料理を振る舞ってくれたのだった。

   * * *

 出会って二年という月日が流れた今も、モグはエクレールに出会った時と変わらぬ優しさで接してくれる。
 はじめは怪我を直すことに専念した。エクレールが魔物と戦って負ったという傷は酷く、リハビリを含めると満足に動けるようになるまで、一年近くの時間を必要とした。念入りに時間をかけたおかげで満足に動けるようにはなったものの、それでも右足に残った後遺症はどうにもならなかった。多少びっこを引いているようには見えるものの、日常生活を行う分にはほとんど影響はない。しかし、激しい運動をすれば途端に不調が出てしまう。そのため、エクレールの活動範囲はかなり限定的で、怪我が治ってからもモーグリの里の中で生活のすべてを賄っていた。
 とは言え、モーグリの里はエクレールが生きていく上で大きな障害となるものは存在しなかった。モーグリたちと見た目こそ大きく異なるものの、基本的に彼らが口にするほとんどのものをエクレールは口にすることが出来たのだ。例えば、キノコ。シルキスの野菜。木の実や花の密。それから豆。そう言ったものをモーグリたちは主食とし、エクレールもそれに倣った。
 井戸の水を汲み、畑を耕し、織物を織る。モーグリたちの生活は慎ましいものではあったけれど、彼らは日常の中にユーモアを見出して明るく楽しく生きていた。怪我の治療が終わった頃にはエクレールはもうすっかり里の住人として迎え入れられて、モグの妹分として少し大きな横穴に住処を移していたくらいだ。(キノコの家はエクレールには小さすぎて、満足に生活できなかったためである)
 気のいい仲間たちとは姿かたちこそ違うものの、里のみんなはエクレールにとって家族だった。慎ましくも素直で明るいモーグリたちの生活に不満らしい不満はなく、日々は淡々と過ぎていく。気が付けば、暮らし始めた当時は肩ほどまでの長さだった髪の毛はすっかり腰の長さまで伸びていた。
 確かに不満はなかったのだ。しかし、時の流れに比例するかのように、エクレールの胸の内に燻っていた想いが膨らんでいくことを無視することが難しくなっていた。
 私は一体何者なのだろう?
 モーグリたちとの生活に不自由らしい不自由はない。強いて言えば、里を守るいばらが開かれる時間が限定的で、いばらの外に出かける仲間が時々不便しているということくらいか。それも微々たるもので、ほとんど里から出る必要のないエクレールの生活に直結するような悩みではなかった。
 不便はない。だけど、私はみんなとは違う。少なくとも、ポンポンは生えていないし、羽も、体の色も、形さえも全然違う。それを誰かに揶揄されるようなことはなかったものの、胸の内にしこりのように残っていたのは多分、気のせいなんかじゃない。
 里の外にある崖で倒れていたという私は、それまでどうやって生きてきたのだろう。里の中しか知らないエクレールが外の世界に憧れるようになっていったのは、ある意味で必然だったのだ。
 ホープからエクレールへ。
 そう彫り込まれていたリングと、魔物と戦った時に使われていたらしいナイフだけが、エクレールにとって外の世界と自分を繋げる唯一の手掛かりだった。
 ホープとは一体誰なのだろう。それはモーグリたちみたいな生き物なのだろうか。それとも、エクレールと同じような形をしている『ヒト』なのかもしれない。
 いずれにせよ、リングがエクレールの指に嵌められていたということを考えれば、ホープという存在から贈られたものであると考えるのが自然だ。
 贈った主は、今どこで何をしているのだろう? エクレールとはどんな関係だったのだろう? 疑問が尽きることはない。
 傷を付けたり水仕事で失くしたりすることが怖かったのでリングをネックレスに変えてからは、すっかり首元の革紐を弄るのがエクレールのお決まりの仕草になってしまった。モグには「また弄っているクポ」と呆れられてしまったのだが、癖になってしまっているものはどうしようもない。
 そうしてエクレールの外への憧れは募りに募り、ついに彼女はいばらの外へ出る計画を決行する。滅多にないことではあるものの、稀に仲間たちだって出かけていくことがあるのだ。今までそうしようと思わなかっただけで、エクレールだってちょっと様子を見てくることぐらい構わないのではないだろうか。
 エクレールのささやかな冒険はまもなく決行された。しかし、魔法のいばらを越えたその先が切り立った深い崖の底で、他にめぼしいものがないというのが分かってしまうと、俄然気になってくるのは崖の上だ。
 とは言え、崖は見上げるほどに高く、飛べないエクレールではどうにもならない。何か上に登る足掛かりになるものはないだろうか、そんな気持ちで探索をしていたエクレールは、思いがけず崖の上に繋がっているらしいロープを見つけてしまう。
 結果的にエクレールは度々里を抜け出すようになり、それを見咎めたモグが心配して詰め寄るというのは、いよいよこれで三度目となっていた。
「崖の方は危ないから、エクレールは行っちゃ駄目クポ!」
 里外れにあるひときわ大きな夜光キノコがモグの家だ。エクレールが座ったことを確認するやいなやモグはそう力強く口にした。対するエクレールも徹底抗戦の構えだ。
「モグたちはいばらの向こうに行くのに?」
「モグたちはお空を飛べるクポ。でも、エクレールは飛べないクポ。崖を登ろうとして落ちてしまったら、また大怪我しちゃうクポ……」
 モグの言い分はもっともな話だ。そもそもエクレールは崖の下で魔物と戦って大怪我をしていたという。それが戦いで得た怪我なのか、崖から落ちたものによる怪我なのか最初は判断がつかなかった。だけれども、いばらの向こうに出てエクレールは気が付いたのだ。
「その点なら心配ないわ」
 崖は見上げるほど高く、切り立っていた。奥まで行けば、多少緩やかな勾配になっている個所もあることにはあるのだが、いばらの近くで倒れていたということを鑑みるとエクレールが落ちていたという地点はかなり絞られてくる。そしてその地点は……普通に考えれば、まず命が助かると思えない高さだった。
 植物がクッションになっているのかとも考えた。しかし、その地点はほとんど剥き出しの岩肌ばかりで植物らしい植物は生えていない。だとすれば、おのずと一つの可能性が浮かび上がってくる。
「これを見て」
 エクレールが取り出したのは、崖下からモーグリたちに助けられた時に身に着けていたという衣装の一部だった。目線の高さにまで持ち上げられたそれに、モーグリが不思議そうに首を傾げる。
「グローブ……クポ? これがどうしたのクポ?」
「いいから見ていて」
 ターコイズブルーに染め上げられたグローブを指に嵌めて、ライトニングは指先にグローブに埋め込まれていたチップを取り付けた。そのまま指を擦り合わせて、パチンッと軽快な音を鳴らしてみせる。
「クポッ!?」
 驚いたように飛び上がったのはモーグリだ。何せ、エクレールの身体がモーグリたち同様に地面から少し浮き上がってみせたのだ。よく見れば彼女の肩口まで流されているピンクブロンドの髪もふわふわと宙に揺れている。飛んでいる、というのは大げさだが、浮いているという言葉以上にしっくりくる表現はないだろう。
 時間にしてほんの五秒程度だろうか。エクレールの身の回りだけ起きた不思議な現象が消えると、彼女の髪も服も元通り重力に従って落ちてくる。そうしてエクレールは、悪戯っ子のような笑みをモグに向けてみせた。
「ね? これなら落ちて怪我したりしないでしょ」
 崖下に落ちればまず命の助からない高さだったのだとすれば、エクレールは何らかの手段を持って崖まで降りてきたということになる。それがこんなチップで起こせるということに気が付くまでに随分と時間がかかったものだが、見つけた時は心底興奮したものだ。誰にも見せていなかった秘密をモグの前で披露して、エクレールはふふんと胸を張る。
「た、確かに、これなら落ちても大丈夫かもしれないクポ」
「大丈夫かも、じゃなくて大丈夫なの!」
 一時的に重力を操ることが出来るという画期的なチップだ。せいぜい人間一人分くらいしか使えないということが分かったものの、エクレールにとってはそれで十分すぎるくらいだ。これ一つあれば、万が一崖から足を滑り落としても大怪我を負うことはない。
「これなら私が崖を登っても安心でしょう?」
 畳み掛けるようなエクレールの言葉に、モグがクポポ、と悔しそうに唸っている。
「でもでも、お外は危ないクポ!」
「モグってば本当に過保護なんだから。そもそも、私は魔物と戦っていたんでしょう?」
 ということは、生きていくために必要な力は持っていたはずなのだ。図らずしもその証明をモグ自身が行っている。
「今のエクレールは覚えていないクポ……」
「でも、みんなだって必要があればいばらの向こう側に行っているわ。危険なのは誰だっと同じはずよ」
 危ないからという理由で遠ざけていては、ずっと遠ざかったままだ。それではエクレールの知りたいことまで到底たどり着けない。
「私は自分が何者なのか知りたい。ただ、それだけなの」
 目が醒めた時、エクレールの記憶は何もかも失われていた。モグに拾われ、里のみんなに助けてもらってこうして生活できるようになったけれど、元々エクレールは別の場所で生きていたはずだった。どんな場所で産まれて、育ってきたのだろう。モーグリたちのように信頼できる仲間がいたのだろうか。それはエクレールと似たような姿をしていたのだろうか。一つ気になってしまうと、連鎖的に次から次へと疑問が浮かび上がってくる。
 何より一番気がかりだったのは、ホープからエクレールへ贈られたというリングだった。
 贈り主は今頃どこで何をしているのだろう。エクレールがモーグリたちと共に過ごすようになって、すでに二年という月日が流れている。突然姿を消したエクレールのことを『ホープ』は気にしているかもしれない。例え気にしていなかったとしても、リングを贈ってくれたくらいなのだから、エクレールのことを知っているはずだ。
「外の世界を知ってみたいの」
 胸元のリングに手を当てて、エクレールはそう口にしてみせた。
 きらきらとしたアイスブルーの瞳が逸らすことなくモーグリに向けられている。一度こうなってしまうと、エクレールがてこでも動かないということをモーグリはすでに知っていた。普段はにこにことしていて穏やかで屈託のない彼女だが、とてつもなく強情な一面を持っているのだ。
「…………分かったクポ」
 長い沈黙の後、モーグリはとうとう観念したかのように声を絞り出した。エクレールの表情がぱあっと明るくなる。
「ただし、クポ! モグも一緒に行くことが条件クポ!」
「モグも?」
「そうクポ! エクレールだけだと心配クポ!」
 モグは鼻息も荒く、クポクポッ! と意気込んでいる。すっかりエクレールに付いてくる気満々だ。想定外の事態にエクレールは思わずぽかんと呆気にとられて、それからみるみる内に満面の喜色になった。
「実はちょっと心細かったの。モグが一緒に付いてきてくれると心強いわ」
「もちろんクポ! モグもエクレールと地上に行くクポ~!」
 クッポポ~! と飛び上がったモグをぎゅっと抱きしめれば、ふわふわとしたいつもの感触が伝わってくる。すっかり慣れた柔らかい感触に頬ずりすれば、モグは「くすぐったいクポ~」と身じろぎをした。
 外に行きたいという気持ちは紛れもなく本当ではあったのだけれども、正直なところモーグリたちと離れることを寂しくも思っていたのだ。その点、モグが一緒に付いてきてくれるとなると気分は百人力だ。
「ありがとう、モグ」
「クポ~」
 こうして、エクレールの崖登りはモグ公認で決行されることになった。こっそりと準備を進めていたことが大っぴらに動けるようになったので、エクレールはそれからてんてこまいになった。何せ、崖の上がどうなっているのかエクレールはよく知らないのだ。準備はいくらしておいたって足りるものではない。
 何度か外に出たことがあるというモグから話を聞きながら、荷袋に詰められる分の荷物を詰めた。モーグリたちへの挨拶も忘れない。長いようで短かった二年間、モーグリの里で過ごした日々を思い出す。
 酷い怪我を負っていた姿も形も違うエクレールのことを、みんなは里の者と同じように分け隔てなく接してくれた。同じ釜でキノコ汁を飲んだ。畑の収穫をみんなで喜んだ。エクレールが引っ越しを決めた時も、次々と手伝いにモーグリたちが飛んできたことが懐かしい。おおらかでユーモアに溢れ、他者を気遣える優しさに満ち満ちた里との別れが寂しくないなんて言えば、嘘になる。
「いつでも帰ってきていいクポ」
「モグはお調子者だから、エクレールがしっかり面倒見るクポ」
「寂しくなるクポ~」
 荷物を背負ったエクレールたちを見送りにきたモーグリたちの姿を見ていると、今まで過ごした日々がよぎって、胸の奥が熱くなる。――それでも、決めたのだ。
「エクレール、いってらっしゃいクポ」
 涙より、笑顔の方がみんなには似合っている。
「いってきます!」
 だからエクレールもまた元気に手を振って、里の外――…魔法のいばらの先へと、足を勧めたのだった。
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