2019.04.23 公開
2019.07.07 修正

#7

「婚姻可能年齢は十八歳から、かあ」
 コクーンが定めた婚姻可能年齢は男女ともに成人を迎える十八歳となっている。
 ホープは今、十六歳。結婚しようと思うのなら、あと二年は待たなければならないという計算になる。
「コクーンの現法は元を正せばファルシが定めたものをベースにしているわけだから、そんなの無視してしまってもいいと思うんですけど……」
「……ホープ、分かっているだろう」
 不満げに布団を被るホープを前に、ライトニングは呆れたようにその額を指先で小突いてみせた。
「私たちは今、コクーンに戻って生活をしている。特にホープ。おまえの親父さんは、今まさに頑張っているところなんだろう?」
 ホープの父であるバルトロメイは、コクーンが墜ちてからというもの、人々が歴史を知り、その場ですぐに最新の情報を盛り込んだ教育を受けられる研究機関を作ることに尽力していた。
 彼がアカデミーを創設したのはすでに周知の事実である。旧聖府陣営は騎兵隊の活躍もあって失脚し、今や事実上騎兵隊とアカデミーがコクーンの主軸となりつつあると言っても過言ではない。そこにはアカデミーの設立を認可した臨時政府も含まれる。
 コクーンの礎となって活躍しているバルトロメイの息子であるホープが、現法を無視するような行動を取ればどこで揚げ足を取られるか分からない。
「分かってますよ」
 ライトニングの懸念は、もちろんホープだって分かっている。
「……言ってみたかっただけです」
 分かっていてそれでも口にしたのは、今の自分に不満があったからだ。
 ライトニングは今年で二十三歳となる。対するホープは十六歳。彼女と結婚しようと思うと、あと二年も待たせてしまうことになってしまう。二十代前半という女性の一番いい時期に、自分が『子供だから』という理由で待たせてしまうことになるのが、ホープにとっては我慢ならないのだ。
「焦らなくていい。私はちゃんと待っているから」
 そんなホープの気持ちを見透かすように、ライトニングは目を細めて笑う。
「でも……」
「誰からも文句を言わせない関係をおまえと築きたいんだ。それに、時間ならまだまだたくさんある。二年なんてあっという間さ」
 現に、ルシの旅が終わってからの二年は本当にあっという間だった。まるで飛んでいくみたいだったよ。だから、このくらい大した時間じゃない。
 そこまで続けてから、ライトニングは悪戯っぽく口元を持ち上げてみせる。
「追いかけてくれるんだろう?」
「……はい」
 年上の彼女がここまで言ってくれているのだ。ここで駄々をこねてしまえば、それこそ自分はただの『子供』になってしまう。ホープは不満を飲み込むようにそう口にすると、顔を上げた。
「早く正真正銘の『大人』になって、ライトさんを迎えに行きます」
 同じ布団に包まった恋人が、ホープの言葉に嬉しそうに相好を崩す。彼氏にだけみせる、彼女の特別な表情。それがホープにはたまらなく嬉しかった。
「……ああ」
 きっといつか、この時間を振り返る時がくるだろう。なんとなく、そんな予感があった。
 狭い部屋の中で二人、そう言えばそんなやりとりもあったなと、懐かしく振り返る未来が。――そう、無条件に信じていられたあの頃。
 彼女と過ごした部屋は、何一つ変わっていない。しかし、物のない部屋は空っぽになってしまったホープの心の中を映したようだった。
 真新しいベッドの上に残っていたライトニングの残り香はもうほとんど消えてしまっている。ほんの数日しか彼女はここで暮らさなかったのだ。痕跡を辿ろうにも、あまりにも生活感が薄すぎる。
 それでもホープはこの場所から動けなかった。
 確かにこの場所で、ライトニングは笑っていたのだ。
 一つの布団の中に二人で包まり合って、これからの未来を語り合った。お互いに交換し合ったリングを見つめて、指先を撫でて。なんだか実感が沸かないな。照れ臭そうに口にするライトニングの唇にキスをした。
 紛れもない幸せが、確かにこの部屋の中にはあった。だけどもう、その幸せはここにはない。ホープの手の中からあっさりと滑り落ちてしまった。何も知らずにホープがただ時間を浪費している内に。
「ライトさん……」
 布団を手繰り寄せてあの人の名前を呼ぶ。
 なんだ。そう振り返ってくれた好きな人の顔を思い出せるはずなのに、どんな匂いをしていたのか、どんな風に名前を呼んでくれていたのか、そういう感覚はどんどん失われてしまうような気がする。
 せめて今手元に残っているものだけは、取り零したくなかった。あの人の優しい声も、好きだった表情も、その仕草も。忘れたくない。絶対に失いたくない。ホープが必死になって掻き寄せれば掻き寄せるほど、激しい喪失感が胸を突く。
「……どうして」
 これからの未来を約束したはずだった。
 一緒にご飯を作ろうと口にした。作るのはホープ、皿を出したり片づけたりするのはライトニング。役割はぴったりじゃないか、そう誇らしげに彼女が口にしていたのを覚えている。
 出かける時はいってらっしゃいと見送って、帰ってきたらおかえりなさいって笑いたい。休みの日は一緒に映画を見に行こう。たくさんハグだってしたいし、キスもしたい。
 そのうち子供も作りたいな。触れてもいない内からそんなことを口にするライトニングに、内心ドキドキしながら女の子がいいです、と声を上げた。きっとライトニングによく似た可愛い女の子になるに違いない。ぷくぷくほっぺの可愛いライトニング似の女の子を想像すると、自分が子煩悩な父親になる未来が見えた。絶対、甘やかしてしまう。その内成長して、彼氏なんて作ってしまったらどうしよう。娘の結婚式なんて泣いてしまうかもしれない。葛藤するホープを前に、ライトニングが不満そうに唇を尖らせる。
 私に似てしまったら、娘にホープを取られてしまうじゃないか。男の子がいい。それなら、剣だって教えることができるしな。段々興が乗ってきたのか、ライトニングが饒舌になる。
 剣ならどのタイプがいいだろう。私は銃刀だが、こいつは癖があるからな……。いや、剣に限る必要はない。その子に合う武器で、技を高めて言って貰いたい。女性が口にするには些か物騒な話題だ。
 ていうか武器を持つこと自体、危ないですよ。子供はできれば安全に、健やかに成長してもらいたいんです。
 馬鹿を言うな。自分で戦える力を持つことは大切だ。いつ何が起こるか分からないだろう。
 そりゃそうですけど、危ないことがないに越したことはないじゃないですか!
 いつしか睨み合いみたいになって、最後は二人でぷっと笑った。式もまだどころか、最速でも二年先だと言うのに、お互い気が早すぎる。それでも、これからの未来を二人で想像するのは楽しかった。
 いつセラさんに話しましょうか。ホープがそう口にすると、少しだけ考え込んでライトニングは「あの子の出産が終わったら」と口にした。悪い知らせじゃないから気を遣うことでもないんだが、落ち着いてからの方がいいだろう、とも。
「私が気持ちを落ち着ける時間が必要なんだ」
 枕の中に顔を埋めたライトニングが、呻くようにして声を上げる。
「幸せすぎて、自分でもまだ実感がない」
「僕もです。これから、一緒に『当たり前』にしていきましょうね」
「……ああ」
 噛みしめるように枕から顔を上げたライトニングを前に、ただ無条件にこれからを信じていられた。二人一緒なら、どんなことだって乗り越えられるような気がする。――それなのに今、二人の未来を約束したこの場所にはホープ一人しか残されていない。ホープが『大人』になるよりも先に、手の届かない場所へライトニングは逝ってしまった。
 ノラを喪った時、ホープはスノウのことを恨み、憎んだ。母さんが死んだのはあいつのせいだ。そうやって憎しみに駆られ、復讐に取り憑かれることによって立ち上がる力を手にした。
 今ならそれは、間違いだったというのが分かる。間違いであったけれど……あの時、紛れもなくホープは憎しみによって救われていた側面があったのだ。
 ノラの仇であるスノウに復讐を果たすまでは死ねない。聖府軍に追われるという過酷な旅の中で、非力なただの子供でしかない自分が生きていられたのは、激しい憎悪が間違いなく原動力だった。
 なら、今回のライトニングの死は、一体誰を恨めばいいのだろう?
 アルフレッドだろうか。彼の迂闊な行動によって、シャオロングイは攻撃対象を定めた。しかしそれはあくまでもアルフレッド自身の話だ。ライトニングはあくまで彼を助けようとしていたにすぎない。
 アルフレッドに限ったことではないのだ。未熟で、どこか頼りない人物をライトニングが放っていられたはずがない。面倒見のいい彼女のことを、ホープは誰よりもよく知っている。パルスでの旅は、ライトニングの優しさをホープにこれ以上なく教えてくれていた。
 部隊の誰であったとしても、ライトニングはその危機に駆けつけたことだろう。つっけんどんな口ぶりをするけれど、彼女はそういう人だ。一度懐に入れた人のことを、けして見捨てたりなんてしない。アルフレッドはある意味で、かつてのホープと同じ立場の人間だったに過ぎないのだ。
 ライトニングは仕事でパルスに出かけた。そして、不慮の戦闘に巻き込まれた。なんとか離脱することに成功はしたものの、その後魔物に遭遇して死んでしまった。
 言葉にしてしまえば、ただの不幸な事故に過ぎない。そして、誰も悪くない。……何より憎しみは何も生まないということを、ホープはすでに知ってしまっている。
「……っ」
 分かっているのだ。親しい人間の死を誰かのせいにして、憎んで。目的がないと、戦えないのは……自分自身の弱さにすぎない。心配そうにホープを抱き寄せた在りし日のライトニングの姿を思い出す。彼女がここにいたら、きっと心配しているに違いない。分かっている。そんなこと、分かっている!
「どうして置いて行ってしまったんですか……っ!」
 口にした言葉は、ほとんど掠れて満足な音にすらならなかった。
 誰に聞かすわけでもない。ただライトニングに宛てた言葉が、一人ぼっちの部屋の中に消えていく。
「あなたと一緒じゃないと、僕は……」
 他愛のないことを喋りたい。
 一緒に作ったごはんを食べたい。
 あなたの顔を見て眠りに就いて。
 そうして、目を覚ましたら一番にあなたの顔を見たい。
 出かける時はいってらっしゃいのハグをして、帰ってきたらおかえりなさいと笑いたい。
 そういう未来を築いていくはずだった。それは、ホープにとってはライトニングしかあり得ない未来だった。だけどもう、ライトニングはこの世のどこにもいない。
 恋しい。あの人が恋しい。
 声が聞きたい。
 照れ屋な彼女の、くすぐったそうな表情が見たい。
 アイスブルーの瞳が優しく細められるのが好きだった。
 柔らかい声であの人が「ホープ」と呼ぶ。その声に何気なく返事していた時間が、今になってこんなにも大切だったと思い知らされるだなんて。
 いつだってそうだ。失ってはじめて、傍にあったものが掛け替えがなかったのだということを思い知る。
 座り込んでいたベッドからのろのろと立ち上がって、ホープは備え付けのテーブルまで歩いて行った。受け取ってからそのままになっていたブレイズエッジ――あの人の形見がそこにはある。
 聖府軍のとりわけ優秀な人間に支給されたという銃刀は特注品だ。そこには『白き閃光、唱えよ我が名』と銘が彫り込まれている。物にこだわりのある彼女らしい一文だ。かつて、若気の至りだったのだと、ものすごく恥ずかしそうに見せてくれたことを覚えている。
 触れるものすべてに彼女との思い出が蘇った。
 部屋にある物は少なくとも、交わしたやりとりのことをホープは覚えている。こんなにもくっきりと覚えているはずなのに……ノラの時のように、この悲しみがいつの日か薄れて、かさぶたのようになってしまうのだろうか。そうして、ライトニングのことを少しずつ忘れていってしまうのだろうか。かつて大切な人がいたのだと、昔を懐かしみながら彼女のことを語れる日が来てしまうのだろうか。
 嫌だ、そう思った。
 この悲しみは自分だけのものだ。胸がねじ切れるほどの痛みは全部、自分だけのものだ。忘れたくない。あの人のことを一欠けらだって忘れたくなんてない。
 触れたブレイズエッジは冷たかった。この銃刀と共に過ごした思い出が次々に浮かんでくる。そのどれもが懐かしくて、愛おしくて、絶対に手放したくなんてない。
 いっそ慟哭できれば良かった。だけど、まるで乾ききってしまったようにホープの瞼からは涙の一滴さえも零れなかった。
 多分、崖下のあの惨状を目の当たりにした今でさえ、自分はライトニングが死んだことを認められていないのだ。結局、彼女の姿を見つけることはなく、ホープたちはそのままコクーンへと帰ってきた。亡骸の一つもなく、別れの言葉さえかけることもできず、あの人はあまりにも唐突にホープの前から姿を消してしまった。
「ライトさん……」
 あの人の名を呼ぶ。
 返事なんて返ってくるわけないことを知りながら、それでも呼ばずにはいられなかった。
 好きだった。何より大切だった。

 この気持ちに名前を付けるとするならば――…それは確かに『愛』だったのだ。

   * * *

 歌が聞こえている。
 寄せては引いていく波の音に合わせる様に、桟橋の上で彼女は歌を歌っている。まるでいとし子に聞かせるように。
「海風は体に障りますよ」
 ピンクブロンドの髪を海風にたなびかせていたその人は、ホープの声に歌を止めた。そうして、すっかり大きくなった腹に手を添える。
 ライトニングの三歳年下の妹であるセラ・ファロンは、いつものパステル調の衣服ではなく真っ黒なワンピース姿だった。かくいうホープもまた黒ネクタイに黒スーツといういで立ちだ。
「……この歌はね、お姉ちゃんが私によく歌ってくれた歌なの」
 ホープの言葉に返事はせず、セラは青い地平線を見つめながら言葉を続けた。
「小さい頃、よく泣いてた私にこの歌を聞かせると泣き止んだんだって。だからなのかな。お姉ちゃんがこの歌を歌ってくれたのをよく覚えている」
 ホープが知るライトニングは、ほとんど歌を歌ったりすることはなかった。積極的にそういうことをするタイプではなかったし、何より切り出す機会がなかった。せいぜい機嫌がいい時に鼻歌を聞いた程度だ。だから、ライトニングがどんな風に歌うのかは想像するしかない。
「すごく優しい声だった」
 ライトニングは誰よりも妹に対して心を砕いてきた人だ。セラが彼女の歌声をそう称したことは、何ら不思議なことではない。
「……この子にも聞かせて欲しかったな」
 白い指先が再び腹を撫でる。まもなく臨月を迎える彼女の腹はすでにかなり大きく、スノウとの子が順調に大きくなっているということを示していた。予定通りに進めば、あと数か月もしないうちに新しい産声がこの世に生まれるはずだ。
「ファロン少佐の妹さんだって。少佐が立派だったなんて言われたって、そんなの分からないよ。お姉ちゃんはお姉ちゃんなのに」
 ねえ、ホープ君もそう思わない? そう口にして振り返ったセラの瞳から一筋の涙が零れ落ちる。
 何の前触れもなく、たった一人きりの姉を喪ったのだ。喪主であるという立場もあってか、それでも式の間は気丈に振る舞っていた彼女も、故郷によく似たこの海辺では姉を慕う一人の妹に戻っていた。
 かける言葉が見つからないホープを前に、セラが目を伏せる。明るい彼女の表情を知っているだけに、陰りのあるその顔が痛ましい。
「酷い話だよね。私たちには幸せになれって言っておいて、自分は幸せになる前にいなくなっちゃうんだもの」
 そのアイスブルーの視線がホープの左手に向けられる。正確に言うならば、その薬指にはまっているシルバーのリングに、だ。
「セラさん、気付いて……?」
「パルスへ出発前にお姉ちゃんと通話したの。その時に、ね」
 恐らく通話というのはテレビ電話のことだろう。ライトニングの左手の薬指にはまっているリングにセラはすぐ気が付いたらしい。
 ホープ君から!? そう画面に迫ったセラを前に、ライトニングは「おまえの出産が終わってからにしようと思っていたのに」と小言を漏らすと、もごもごと照れ臭そうに「……まあ、そう言うことだ」と返答してみせた。恥ずかしがり屋なライトニングらしい言葉だ。
「私、嬉しかった。いつもお姉ちゃんは自分のことを後回しにしてばかりだったから、ようやく自分の幸せを掴んでくれるんだって」
 お姉ちゃんのことを大事にしてくれてるっていうのも知ってたから、ホープ君になら任せられるって思ったの。突然スノウを連れてきて結婚するって言った私が言えることじゃないかもしれないけどね。でも、お姉ちゃんにはちゃんと幸せにしてくれる人と一緒になってほしいってずっと思ってた。なのに、こんなことになっちゃって……。
 そこまで口にして、セラの瞳から大粒の涙が転がり落ちる。
「それでもね、お姉ちゃんはホープ君と未来の約束ができてすごく嬉しかったんだと思うの」
 ホープ君が告白してくれた後からのお姉ちゃんは、雰囲気がどんどん柔らかくなっていったから。あんなに輝いていたお姉ちゃん、私初めて見たの。
 当時のことを思い出していたのだろうか。目じりに浮かんだ涙を指先で拭いながら、セラはホープへと視線を向けた。ライトニングと同じ澄んだアイスブルーの瞳でまっすぐに見つめてくる。
 だから、ホープ君。セラはそう口にして、言葉を続ける。
「お姉ちゃんを幸せにしてくれてありがとう」
「僕は、ライトさんを幸せにできていたのでしょうか?」
 ほとんど反射的にその言葉はホープの口から滑り落ちていた。ホープの言葉に、セラは泣き笑いの表情になる。
「できていたよ。妹の私が保証する」
 胸の奥が、痛くて苦しい。
 思い浮かぶのは、笑っていたライトニングの姿だった。記憶の中の彼女は、ホープのすぐ近くで柔らかい表情を浮かべている。……大切で、失いたくなくて、何より愛しいと思った人。
 あの人もまたホープがそうだと思ったように、幸せだと思ってくれていたのだろうか?
 ひときわ大きな海風が吹く。その時不意に髪留めがほどけて、セラの長い髪が風に流れていった。
『……ああ』
 笑っているライトニングの姿がそこにはあった。
 はっとしてホープが顔を上げると、そこにはセラの姿しか見えない。
 姉妹である二人は立ち姿がよく似ているだけだと言ってしまえばそれまでの話だけど、ライトニングがホープの問いかけに応えてくれたような気がした。
「ライトさん……」
 口にした言葉は、自分でも情けないほどに震えていた。胸の奥が痛い。痛くて、痛くてどうしようもないは、今更のように彼女がいないことを理解してしまったからなのだろうか?
 熱い滴がホープの頬を伝って、一筋流れ落ちる。
 ライトさん。……ライトさん。
 あなたのことを幸せにできていたのなら、僕は――…。

   * * *

 生い茂るいばらは魔法のいばら。決まった時間しかほどけることのないいばらの先に、小さな種族の里がある。
 その里は切り立った崖の隙間を縫うように広がった森の中にあって、一日中日が射すことはない。代わりに暗い中でも光る夜光キノコが群生していて、それが光源代わりとなっていた。
 キノコは夜光キノコだけではない。付近には多くのキノコが群生していて、それらは小さな種族の住処となったり食物になったりと、実に様々に活用されていた。コクーンで姿を見たものはいないと言われ、その存在だけが独り歩きしている妖精――モーグリ。それが、この里の住民たちだ。
「クポクポ」
「クポ! ククッポ?」
「クポ~」
 大人しい性質をもつ彼らが出歩くことはほとんどなく、その大半は慎ましやかな生活を送っている。穏やかで変化のない日常を続けていたモーグリの里は、その日、数年間の沈黙を破って大騒ぎをしていた。
 騒ぎの元は、色鮮やかな紫色のキノコの家からだった。発端は、その家の主でもあるモグが、数日前に里の外から不思議なものを持ち帰ったからだ。
 もの、というよりも『それ』は生き物だった。しかしモグは確かに見たのだ。『それ』は全身に酷い怪我を負いながらも、自身よりはるかに巨大な魔物にナイフ一本で応戦してみせたことを。二本足で立ち、武器を振るって戦うことのできる種族。もしかしたら、『それ』こそがかつて先祖と共にパルスを過ごした『ヒト』と呼ばれるものかもしれない。
 結局『それ』は、辛うじて魔物を追い払うと力尽きて倒れてしまった。だけど、戦う力がまるでないモグにとって、あまりにも鮮やかにその立ち振る舞いは焼き付いたのだ。そのまま里の仲間を連れて、モグは『それ』を我が家に連れ帰って介抱していたのである。
 モーグリたちは戦う力は全くと言ってないものの、『おまじない』と呼ばれる不思議な力を持っていた。「クポー! くるくるぴゅ~」と口にすると、少しだけ回復するのだ。
 気のいいモーグリたちは酷い怪我を負っていた『それ』に口々に『おまじない』をかけていった。妖精たちの祝福を受けた『それ』は、数日間は酷い高熱で生死を彷徨ったものの、なんとか峠を越えてみせたのである。
 その頃になっていると、『それ』はすでに里の注目の的になっていた。そんな『それ』が目を覚ましたというのである。里は上から下まで大騒ぎになるのは道理だった。
「クポー!」
「クポクポッ」
「ク~ポ~!」
 次々に窓に張り付いてくるモーグリたちにモグが「怪我に障るクポ!」と制止の声を上げる。それでようやくモーグリたちの群れは騒ぐのをやめた。代わりに体を寄せ合って、「大丈夫クポ?」「よく見えないクポ」「喋れるクポ?」と口々に好き勝手喋っている。
 『それ』は興味津々に群がってくる白い塊たちに怯えているようにも見えた。魔物と対峙している時はあれほど頼もしく見えたのに、これは一体どういうことなのだろう。モグは内心、大きな頭を傾げながらもポンポンを正して『それ』に声をかけた。
「ここはモーグリたちの里クポ! 崖下で倒れていたきみをみんなで介抱したクポ!」
 手にしていた杖を振り上げて決めポーズするモグを前に、『それ』は目を丸くして周囲を見渡す。視線を向けられたモーグリたちが応える様に「クポッ!」と返事をした。基本的にここにいるモーグリたちはみんな『それ』に興味津々なのだ。
「モーグリの里……」
 『それ』が自分の手のひらに視線を落として、呟くように反芻する。そうすると、さっそく窓の向こうから「喋ったクポ!」と嬉しそうな声が上がった。どうやら言葉は通じる様だ。
「きみの名前を教えて欲しいクポ!」
 お名前がないと不便クポ! そう続けたモグを前に、『それ』はアイスブルーの眼差しを向けて考え込んだ。
「私は……」
 そこまで口にして、『それ』は困ったように眉根を下げる。

「私は……誰?」
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