2019.04.23 公開
2019.07.07 修正

#4

 ライトニングとセラは、臨海都市ボーダムで生まれ育った。
 二人の両親は早くに亡くなってしまったものの、土地と家という財産を残してくれていた。だから事実上孤児となっても、二人は住むところに困るということはなかった。そもそもコクーンでは親を亡くした子供を支援する制度がしっかりと整えられていて、多少不便なことはあっても十分に生きていける環境があったのだ。
 しかし二年前、コクーンが堕ちた衝撃でボーダムが文字通り潰れてしまった。パージによって住民は残っていなかったものの、街自体が崩壊して、とても人が住める状況ではなくなってしまったのだ。ボーダム出身であるライトニングとセラ、そしてスノウはまず住むところを探すところからの再出発だった。
 暫く飛空艇リンドブルムに間借りをしながら、三人は家探しを始めることとなった。スノウはともかくとして、ライトニングとセラにとっては初めての家探しだ。決まるまでには時間がかかるだろうと思われていたものの、家探しは存外簡単に解決した。
 それはリンドブルムが偶然停泊した場所で、景色が綺麗なパルスの海沿いだった。寄せては引く波の音を聞いていると、まるで故郷に帰ってきたかのような気がした。
 ここを俺たちの第二の故郷にしよう。そう口にしたのはスノウで、セラも大きく頷いた。
 セラがパルスで暮らすと決めたのなら、ライトニングの住む場所は決まったも同然だ。ゆくゆくは結婚をするとは言え、ライトニングとセラは世界でたった二人だけの姉妹である。いずれ巣立っていくであろうセラと、出来る限り共に暮らしていたかった。
 月日は流れる。さらさらと。
 身内だけの小ぢんまりとした式だけ挙げて、セラとスノウは籍を入れた。元々結婚したいと口にしていた二人である。つがいとなるまでに、さほど時間は必要なかった。
 セラとスノウ、NORAたちにライトニング。みんなで作ったノラハウスが完成した頃、ライトニングは騎兵隊に入ることに決めた。丁度リグディから勧誘を受けていたというのもあったが、いよいよ家の基盤が出来て落ち着けるようになってきた今、新婚であるスノウとセラの間にいつまでも居座っていていいのだろうかと思いあぐねたというのが一番の理由である。
 セラはもちろん、スノウもライトニングを大切な家族として接してくれる。馬鹿な義弟だが、その性根は清々しいほどまっすぐで、だからこそライトニングは気兼ねなく接することができた。
 居心地が悪い訳ではけしてなかったのだ。だけれども、いつまでもこうしていられないという予感めいたものは持っていたのだと思う。
 ライトニングは騎兵隊に入隊すると同時に、元々少なかった荷物をトランクに詰めて、リンドブルムへ移ることになった。セラはたくさん泣いて、スノウは寂しそうに、だけど二人共笑ってライトニングの出発を見送ってくれた。そうしてライトニングの家と呼べるものは事実上リンドブルムになり、端的に言えば、長らく家なしになっていたのである。
 そんなライトニングがパルムポルムの賃貸マンションの一角を借りる手続きを終えたのは、ほんの三日前のことである。騎兵隊の主な機能は飛空艇リンドブルムに搭載されているとはいえ、事実上の首都となったパルムポルムに訓練場がある。(正確に述べると、ガプラ樹林の実験場が今、騎兵隊の訓練施設に様変わりしている)パルムポルムに滞在中は寄宿舎を利用するということもできなくはないのだが、ライトニングはあえて普通のマンションを借りることにした。
 一つは、ここ二年ほど遠征ばかりで使うことのなかった給料が思いの外貯まっており、経済的に余裕があったということ。もう一つは、ホープと会うためだった。
 寄宿舎は騎兵隊自体が保有する施設の一つである。当然、そこに住んでいるのは隊員ばかりだ。ちゃんとお付き合いをしているのだから堂々と振る舞えばそれでいい話なのだが、如何せんホープはまだ未成年である。いくら当人たちが清く正しいお付き合いをしていると言っても、外野が好き勝手なことを言うのは世の常だ。
 ライトニングはそれでも別に構わない。何を言われようが自分の責任ですむ話で、ホープと付き合うことになったのも、多少強引だったとはいえ悪くはないと思っている。最終的な決断をしたのは、あくまでライトニングであるからだ。だからこそ、ホープのことをよく知りもしない外野に憶測でものを言われるのは我慢できそうになかった。
 避けることのできるトラブルをギルで解決できるのであれば、それに越したことなどない。そういった経緯から、ライトニングはパルムポルムのマンションを契約することになったのだった。
 今後の予定を告げた時、ホープが驚くのと同時に喜んでくれたのは、ライトニングにとっても嬉しい出来事だった。まだほとんど物のない部屋ではあるものの、十四日のホワイトデーというタイミングでホープがライトニングの新居に来ることになったのは、ごく自然な流れだったと言える。
「何もない部屋で悪いな」
「……本当に物が少ないですね」
「だから言っただろう」
 一人暮らし用の1LDK。ライトニングの新居となったのは、東向きに開けられた大きな窓が気持ちのいい六階だった。階も比較的高めなので、パルムポルムの景色がよく見える。駅から十分ほどの距離で、交通アクセスも申し分ない。
 駅前にはショッピングモールが並んでいて、スーパーがその中に入っているのは確認済みだ。調理器具がないからというライトニングの提案で、二人はモール内の店で夕食を取ったところだった。
 ライトニングが口にしていた通り、部屋の中はほとんどといっていいほど物がなかった。寝る場所だけはちゃんとしたいということで、通信販売で先に買っておいた新品のベッドが一つ、それから備え付けのテーブルとチェアが一セット鎮座しているくらいのものだ。それ以外に家具らしい家具が見当たらない。
「これから買っていけばいいと思っているからな」
 ライトニングはどちらかと言えば物に対してこだわりがある方だ。事実、彼女が愛用しているブレイズエッジは特注品で、わざわざ銘まで掘るという気合の入りようだ。場当たり的に物を買うのではなく、自分のものを吟味して少しずつ置いていきたい。そういうライトニングのこだわりが透けて見えて、ホープは思わず苦笑を零した。
「それにしたって、もう少し物があってもいいでしょうに」
「なに、すぐに増えるさ」
 この部屋はエストハイム邸からもそう遠くない。ホープが行き来をするならば、自然と物が増えていくはずだ。さらりとライトニングがそう口にすると、対面に座っていたホープの頬が朱に染まる。
 そんなホープの反応を見ていると、自分がとても恥ずかしいことを口にしたように思えてきて、ライトニングもまた明後日の方角を向いた。頬にじんわりと熱が灯っていくのが分かる。ホープのが伝染してしまったんだ。恨みがましく心の中で呟いたところで、部屋の中に落ちた微妙な沈黙は解消してくれない。
「そ、そういうことだから」
 思わず早口になりながら、ライトニングはポケットの中に入れていた真新しいカードキーを取り出してみせた。
「おまえはいつでもここに来てくれていい。仕事柄、私はあまりここの面倒を見れないから、時々気にしてくれるとありがたいんだ」
 最初の言葉だけで良かったはずなのに、照れが邪魔をしてしまってついつい言い訳じみた言葉を付け足してしまう。さっそく後悔するライトニングとは裏腹に、カードキーを差し出されたホープはぽかんと口を開けて、ライトニングとカードキーの交互に視線を向けた。
「ライトさんの部屋の鍵を僕に……?」
「なんだ、悪いか」
「そっ、そんなことありません! すごくすごく嬉しいです!」
 ほとんど飛びつかんばかりの勢いだ。両手を握りしめて迫るホープに「近いぞ」と指摘すれば、慌てたようにホープが身を引く。こんな風に不意打ちで近づかれると照れるから勘弁してほしいのだが、どうにもまだ距離感が掴めない。
「なんだか僕、ライトさんに貰ってばかりですね」
「そうか?」
「だって、バレンタインの時もチョコレート貰ったじゃないんですか」
「あれは……たまたま持っていただけだ」
 そもそもの話、ホープが本命からしか貰う気がないのだと学校で公言して回っていると知った時点で、なしだなと思っていたのだ。ただ、スーパーへあんかけそばの材料を買い物に行った時、たまたまチョコレートが目に付いて。おやつに食べるくらいなら別にいいんじゃないだろうか、となんとなくそんな気になって。駄目なら自分で食べよう。そんな軽い気持ちで、買ったチョコレートをポケットの中に突っ込んでいた、ただそれだけの話なのだ。
「大それたものじゃない」
「それでも僕は嬉しかったんです」
 間髪入れずに、ホープにそう返される。
「貰ったチョコレート、食べるのが勿体なさ過ぎて一週間くらい大事に取ってました」
「それは普通に食べてくれ」
 そこまでするようなものじゃない。思わず呆れてしまったライトニングを前に、ホープは照れ臭そうに「それだけ僕にとって特別だったんですよ」と笑う。
「あなたが大切な部屋の鍵を、僕に預けてくれたことが嬉しい」
 抱きしめたい。叶う事なら、キスしたい。戦うことを選ぶというなら、せめて見送る権利が欲しい。いってらっしゃいと見送って、おかえりなさいって笑いたい。そう真剣な眼差しで、ただ真っすぐにライトニングを見つめていたホープ。
 正直なところ、ライトニングはその言葉で落ちたのだ。
 何となく目が離せない弟分のような存在。それだけのはずだったホープが、あの瞬間、ライトニングの中にぽっかりと空いていた穴にぴったりとはまってしまった。
 なんとはなく、自分は一人で生きていくのではないか、ライトニングはそう思っていたのだ。ずっと一緒だと思っていたセラがこの手から離れてしまって、寂しさを埋める様に仕事にのめり込んだ。飛ぶように過ぎていく時間をどこか他人事のように感じながら、このまま歳を重ねていくのだろう。そんな風に思ってさえいたのだ。
 そんなライトニングの目を真正面から見つめて、ホープは一緒に居たいのだと、なりふり構わぬ捨て身でぶつかってきてくれたのだ。あの時はまだ混乱していて、どう返事をしたらいいのか分からなかったけれど、今ならちゃんと分かっている。
 ライトニングはホープ・エストハイムのことを好ましく想っている。
 だからこそ、その証として部屋のカードキーを渡したのだ。
 元々言葉を重ねるのは苦手な性分だ。信頼している。傍に居て欲しいと思う。口にできればいいのに、どうしても照れが勝ってしまってぶっきらぼうな物言いになってしまう。だったらせめて、行動で示そうと思った。
「ライトさんに渡したいものがあるんです」
 ホープはそう口にして、ゆっくりとライトニングに向き合った。その表情は固く、緊張しているようにも見える。思いがけず真剣な様子をぶつけられて、ライトニングもつられるようにして姿勢を正した。
「買ってからも、正直なところ迷っていたんです。あなたに僕の気持ちを押し付けているんじゃないかって」
 バレンタインの時はかなり強引でしたから。そう口にして、ホープは苦笑を零す。
 誰にも渡したくなかった。ライトニングのことをよく知りもしない大人に横から掻っ攫われるだなんて我慢できそうにもなかった。子供であることを言い訳にして、居心地のいい関係で終わらせてしまいたくなんてなくて。だからあの日、ホープはライトニングに想いを伝えたのだ。
「ホワイトデーのお返しに……って口実を付けたけど、そんなの抜きに、僕自身の意思で渡したい」
 そう口にして、ホープは上着の胸ポケットから小さな箱を取り出した。長い指先で丁寧に箱を開いていく。やがて、ベルベッドの台座に収められたシンプルなペアリングが、ライトニングの前に姿を現した。
「僕はまだ子供です。スノウがセラさんにしてあげたこと、同じようにとはいかないと思います」
 射貫くようなエメラルドグリーンの輝きだ。ライトニングを真正面から見つめている。そうしてホープははっきりと口にした。
「でも、いつか必ず本物をお渡しします。だから、どうかライトさんの未来を、僕に約束してくれませんか」
 息を呑む、とはまさにこのことを指すのではないだろうか。
 差し出されたリングを前に、ライトニングは固まったまま微動だにしない。そんなライトニングのことを、ホープは緊張で真っ赤になった顔のまま見つめている。
 一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。
 ほんの少しなのかもしれないし、長い時間だったのかもしれない。頭の中がふわふわとしていて、時間の感覚は完全に吹き飛んでいた。呆気にとられたまま、ぽかんと口を開いているライトニングを前にホープが痺れを切らすのが早かった。
「……あの、やっぱり、まだ……早すぎ、ました……ね……」
 内心傷ついているのを必死で隠そうと、無理に笑おうとしている。ホープにそんな表情をさせてしまったということに気が付いたその時、ライトニングの身体は自然と動き出していた。
「違う」
 そうじゃない。考えるよりも先に、口が動いていた。
「ただ、予想外だったんだ。おまえがこんなに風に想っていてくれたなんて……知らなくて」
 いや、それは違う。知らなかったというわけじゃない。ホープは一番最初に口にしてくれているはずで、ライトニングが知らない訳がないのだ。そこまで気が付いて、ライトニングは愕然とした。
 結局のところ、ホープを一番に子ども扱いしていたのは他でもないライトニング自身だったのだ。子供だ子供だと言って、真っすぐに見つめてくれるホープの眼差しに気が付かない振りをして。そうやってずるい大人の振りをしている内に、勇気を振り絞って口にしてくれたホープを傷つけてしまった。
「違う! そんなことを言いたいんじゃなくて……」
 ああ、一体どうして言葉はままならないのだろう。言いたいことはそんなことじゃない。想いはもう、カードキーを作ったその時に決まっている。
 ライトニングは俯いていた顔を上げた。今度こそ、睨み返すようにホープをキッと強く射る。
「嬉しいに決まっているだろう! 私も、おまえのことが大好きなんだッ!」
 たったそれだけのことだった。時間にしてもほんの数秒の言葉だ。そうだと言うのに、発するだけで物凄いエネルギーを必要とした。
 肩で息をするライトニングを前に、今度こそ呆気にとられたのはホープの方だ。丸いエメラルドグリーンの瞳が、零れ落ちそうなくらい大きく見開かれている。
「……悪いか」
「悪く、ない……です……」
 ホープはなんとか言葉を絞り出すと、茹蛸のように顔を真っ赤にさせて口元を手のひらで覆ってしまった。そんな彼を前にしていると、今更ながらにとんでもなく恥ずかしいことを口にしてしまったような気がして、ライトニングもまた明後日の方角を向いた。気分はもうどうにでもなれだ。
「ライトさん」
「……」
「ねえ、ライトさんってば」
「……」
「僕のこと、好きなんですか」
「……そうだと言っている」
「初めて聞きました」
「……初めて言ったからな」
「……すごく……すごく、嬉しいです」
 その言葉があんまりにも噛みしめるようだったから。
 ライトニングはゆっくりと振り返る。そうすれば、先ほどとは打って変わってふにゃふにゃと蕩けそうな笑顔を浮かべたホープの表情が間近にあった。
「あなたの指にはめてもいいですか」
「……ああ」
 今度はそれで十分に伝わった。
 まるで宝物を扱うかのように恭しい手つきで、ホープの指先がライトニングの左手に添えられる。シンプルながらも品良く見えるシルバーのリング。それがゆっくりと、薬指中に通されるのを、ライトニングはじっと見つめていた。まるであつらえたようにしっくりと左手の薬指の中で光っている。
「ぴったりだ……」
 目の前にかざして見ると、ほっと安心したようにホープが息を吐く。
「サイズが変わっていなくて良かったです」
「一体いつの間に調べたんだ」
「昔、パルスで武器を触った時に指の太さを比べ合ったことがあったでしょう? その時のことを覚えていたんです」
「よくもまあ……」
 覚えていたものだ。呆れるやら感心するやらのライトニングを前に「ライトさんのことですから」と照れ臭そうにホープが笑う。そんな表情を浮かべられると、無性に愛しさが込み上げてきて、ライトニングはホープの左手を掴んでみせた。
「今度は私だ」
 台座に埋まったままになっていた一回りほど大きなリングを指先に取る。そうして、ライトニングもまたゆっくりとホープの薬指にリングをはめていった。
 まるで、何か神聖な儀式みたいだ。お互いのリングを嵌め合って、それぞれの想いを確かめ合う。……ああ、そうだ。そういうことを、人は長い人生の中で交わしていくのだろう。
(私にこんな日が来るとは思わなかった)
 お互いの指先で光っているリングの輝きに目を細めて、ライトニングは唇の中で噛みしめた。
「きっと僕、一生今日のことを忘れないと思います」
 おおげさだな、そういつものように返せなかった。きっと、ライトニングも今日という日の出来事を宝物のように抱きしめて、生涯歩いていくことになるだろう。そんな予感があった。
「……ああ、私もだ」
 吐息のように零した言葉に、ホープの瞳が優しく細められる。
「ライトさん」
 指先が伸びてきた。すっかり大人びた顔つきになってきたホープの顔が近づいてくるのが分かる。これから起こることを予見して、ライトニングもまた応える様に瞼を閉じた。
「……ん」
 触れた感触は柔らかい。心臓がどきどきとしている。
「っ」
 触れては離れて。もう一度触れて。頬に添えられた手のひらが熱い。まるでその熱が伝染して行っているかのようだ。不意に唇の中にぬるりとしたものが侵入してきた感覚があって、ライトニングは目を開いた。
 熱っぽいエメラルドグリーンの眼差しが、とても近い場所からライトニングに向けられている。その眼差しに絡めとられてしまうと、もうどうにもできなかった。次第に深くなっていくキスに溺れるかのように、ライトニングは瞼を閉じる。触れては離れて。もう一度触れて。呼吸もままならぬほどの激しいキスに、今度こそライトニングは喘ぐように口を開けば、無防備になっていた耳をホープに甘く噛まれてしまう。
「やっ……」
 零れた声は、自分の発したものだと思えぬほどしっとりと濡れた響きを持っていた。思わず唇を塞ごうと指先で口元を覆うと、ぞくりとするような低い声で「恥ずかしがらないで」と囁かれる。先ほどのキスと相まって、へなへなと腰が砕けてしまった。
 気が付けば、ライトニングは買ったばかりのベッドの上に縫い付けられていた。熱の篭った眼差しでライトニングを見下ろすホープの顔は、もはや子供とは言い難い。無邪気さなどはもはや欠片もなく、ただ目の前の女を前に余裕を失くしている一人の男がそこにはいた。
「……っ」
 ぴりっとした甘い痛みがあって慌てて目を伏せれば、噛みつくような口付けを首筋に落とされていた。プラチナブロンドのふわふわとした髪がライトニングの胸元で揺れている。やがてその長い指先がライトニングの胸に触れるのが分かった。指先の動きに合わせて、乳房がゆっくりと形を変える。その段になって、ようやくライトニングは流されかけている自分に気が付いた。
「だ、だめだ」
「……ライトさん?」
 やんわりと動きを止める様に、ホープの指に自らの指先を添える。そうすれば、ホープは「どうして?」とでも言いたげにライトニングの顔を下から覗き込んだ。思わずうっ、と息を詰めるものの、ここで流されれば最初に決めたことさえいい加減になってしまう。ライトニングは意を決して口を開いた。
「触れたくなるのは分かる。……正直、私もおまえにならいいと……思う」
「だったら」
「でも、駄目だ」
 そこまで短く言い切って、ライトニングは目を細めた。
「ホープがしっかりしているのも分かっている。だからこそ、行為は精神的にも肉体的にも正しく成長したおまえに捧げたいんだ。……ちゃんとしたリングも、そのうちくれるんだろう?」
 囁くようにそう告げれば、ホープがぐっと強く唇を噛みしめるのが分かった。何かを堪えるように目を瞑るのも。やがて彼は、絞り出すようにして声を発した。
「……そんなこと言われたら、追いかけるしかないじゃないですか」
「ああ。……待っている」
 心からの本心だった。もはやホープを子ども扱いなんてしない。だからこそ、正しい手順で、誰からも文句を言わせない関係を築きたいと思った。
 ホープが文字通り大人になるその日にはライトニングのすべてを捧げよう。固く心にそう誓う。
「だから、早く追いかけてきてくれ」
 そう口にして抱きしめる様に、ホープの顔に両腕を伸ばす。されるがままになっていたホープは、それでライトニングの意図を察して、伸び上がってもう一度キスをした。

 その日、ライトニングとホープは同じベッドで眠った。
 行為は一切なかった。ただ、少し広めのライトニングのベッドに、かつてそうしたように身を寄せ合ってこれからのことを話し合った。ホープは父であるバルトロメイの仕事をこれまで以上に手伝おうと思っていること。そのためにハイスクールを卒業したら、アカデミーに入ると決めているそうだ。歴史の研究者になって、未知のものが多いパルスやコクーンの生い立ちを調べて歩きたいらしい。
 ライトニングが話したのは騎兵隊のことだ。まだ暫くは体が動いてくれるだろうが、いつまでも最前線ではいられないだろうと薄々勘付いていた。ゆくゆくは教官になってもいいと思っている。初めて胸の内を言葉にすると、ホープは驚いたように目を丸くして、そうして嬉しそうに顔を綻ばせた。ライトさんは面倒見がいいからきっと向いていると思います。それに、危ないのはやっぱり心配だから……。とも。ライトニングの腕を信頼していない訳ではないけれど、最前線はいつも危険と隣り合わせだから、やっぱり危険が少ない方が安心できるとホープは噛みしめるように口にした。
 いつ式を挙げようか。付き合うことになったことはすでにセラとスノウは知っているものの、これからのことを知ればきっと驚くだろう。子供が欲しいなと口にすれば、女の子がいい、とホープは言う。きっとライトさんによく似た可愛い女の子になります。そんなのは勘弁だ。私に似てしまったらホープを取られてしまうじゃないか。男の子がいい。剣だって教えることができる。いつしか睨み合いみたいになって、最後は二人でぷっと笑った。お互いに気が早すぎる。それでも、これからのことを話すのはなんだかとてもわくわくした。
 まだ見ぬの未来を二人で描くことはなんと楽しいことだろう。気が付けば夜はとっぷりと暮れ、二人はお互いに顔を寄せ合って眠りに就いた。
 翌日、ライトニングは少ない荷物をまとめてリンドブルムへ向かった。元々パルムポルムに長期滞在の予定はなく、パルスにとんぼ返りの予定だったのだ。
 二年という月日を経て、グラン=パルスの調査はある程度進んだものの、満足とは到底言い難い。元々コクーンの何倍も広い土地なのだ。聖府軍が事実上解体した今となっては、騎兵隊がパルス開拓の基盤となっている。『麗しき軍神』と呼ばれるほどの腕前を持つライトニングが派遣されない訳がない。
「何度も言うが、今回の任務でパルスが初めての奴は特に肝に銘じておけ。いつ、どんなことがあるか予測できないのがパルスだ。自分の身は自分で守ることを念頭に置いて行動するように」
 広大なアルカキルティ大平原は、それこそ魔物たちの活動圏だ。昼はゴブリンやジャンボムースが平原を歩き回り、日が暮れると夜目が利くウルフ系の魔物が活発になる。活動圏を注意深く見極め、危険地帯を避けながら行進するのがセオリーだ。
 ライトニングはかつて、ファングやヴァニラからパルスの歩き方を教わった。いくら軍属の身であったとしても、基本的には清潔で安全な生活が約束されたコクーン純粋培養の人間だ。生粋のパルス人である二人からは学ぶことは多かった。
 自分の身は自分で守る。ファングが何度も口にしていた言葉だ。それはすぐに骨身に染みることになった。平原では何もそこに見えるものだけが全てではない。例えば匂いや天候。それから空の様子や地形。そういった微妙な変化を見逃して、何度も手痛い目に遭った。
 アルカキルティ大平原は所々に切り立った底の見えない崖がある。ただ歩いているだけでは駄目で、そういったものを正しく認識しながら進むことも大切だった。
 ルシの旅の時はファングとヴァニラがいた。彼女らは何度もライトニングたちを助けてくれたし、ライトニングたちも慣れてきてからは力になれたように思う。
「今回の任務地は、知っての通りアルカキルティ大平原の中でもほとんど手付かずになっているロングイエリアだ。あくまで現地のサンプル採取が目的だから、基本的には危険は少ない。ロングイは危害さえ加えなければ大人しい生き物だからな。だが、一度怒ると手が付けられない。けして刺激を与えないよう、行動には細心の注意を払うように」
 ハッ! と敬礼する部下たちの様子を見届けて、ライトニングは平原に視線を向ける。
「ロングイにもいくつか種類がある。例えばだ、新入り、あの崖の近くを歩いている牙が折れた亀は何か分かるか?」
 ライトニングに話を振られたのは、今回の任務のため編入することになったファロン隊の新入りだ。ヘルメットに隠れてその表情は分からないものの、緊張しているのかその動きは固い。
「ハッ! あれはアダマントータスです! 強さの順で言えば、アダマンケリス、アダマントータス、アダマンタイマイ、ロングイ、シャオロングイとなっており、亀の中では二番目の強さとなります!」
 見ての通りの巨体ですから、クエイク攻撃はかなり危険だと記録がありました。そこまで淀みなく口にした隊員に、ライトニングは感心したように片眉を上げた。
「よく予習をしている」
「ハッ! 大尉殿にお褒めに預かり光栄です!」
「それから、私は堅苦しいのは苦手でな。大尉殿ではなく、ライトニングでいい。気を緩めすぎは良くないが、気を張りすぎても持たない。おまえの先輩たちから、パルスの過ごし方をよく学ぶといい」
 そう口にしてふっと口元を持ち上げてみせる。そうして踵を返して歩いて行ったライトニングの後ろ姿を、ほうっと隊員は見惚れていた。
「よう、早々に褒められるなんて大した奴じゃねえか」
 そんな新入りの後ろからぬっと姿を現したのは、同じくファロン隊に所属している先輩隊員だ。
「だが、憧れるのもほどほどにしておけよ。あの方はすでに先約済みたいだからな」
「先約済?」
「ああ。なんでも、今回のパルムポルム滞在から帰ってきたら、婚約指輪を付けてたらしい。おかげで隊の連中は大荒れよ」
 上官とどうにかなりたいって思う奴の気は知らねえが、まあ、ライトニングがいい女っていうのは分かるからなあ。がはは、と豪快に笑う先輩隊員を前に、新入りはぽかんとしたまま突っ立っている。
「こんやくゆびわ……」
 なんだか泣きそうな声音だ。そんな新入りの背中を、先輩隊員がばしんと軽く叩いてみせる。
「あんたの気持ちが分かるやつがここにはごまんといるさ。まあ、仲良くやっていこうや」

   * * *

「うーん……」
 二つのマグカップを持ち上げて、ホープは難しい顔をしていた。
 理由は単純だ。ふらりと入った雑貨屋で、白と黒を基調としたホープ好みのマグカップを見つけたのだ。対となるデザインで、一目見て気に入った。ペアカップとなると、自然と思い浮かぶのはライトニングの顔である。ホープ自身はとても気に入ったのだが、果たしてライトニングはどうなのだろう。マグカップとなれば、特によく使う日用品になる。ライトニングの意見を聞きたいところだが、生憎彼女はパルスだった。
 コクーン内であればメールを送れば済む話なのだが、電波が届きにくいパルスではそうもいかない。拠点に入らなければ電波が届かないからだ。そもそも、ライトニング自身が筆不精という問題もある。現に相変わらず彼女からの連絡はない。
「このマグカップって在庫ありますか?」
「すみません、店頭に置いているもので最後なんです」
 店員のその言葉で、ホープは買うことを決心した。ライトニングが気に入らなければ、いざとなったら自分用の予備にしよう。そこまで考えて、どこに置こうか少し迷う。シンク周りに多少のスペースはあるものの、そのままという訳にはいかないだろう。ゆくゆくは食器棚など買っていきたい。
 なんとなく、パルムポルムで二人キッチンに立った時のことを思いだした。ライトニングは皿を用意してくれて、ホープはできたてのあんかけそばをよそったあの日。こういうの、なんかいいなあ。一度きりしかないだろうと浮かれたあの感覚が、これからは何度もやってくるのだ。両手の中にあるマグカップを見下ろして、ホープは思わず笑みを零した。
 黒をホープの。白をライトニングのものにしよう。気に入ってくれるかどうかまだ分からないうちからそんなことを考えた。ミルクなしで飲めるようになったコーヒーを二人で飲んでもいい。そうだ、ゆっくりくつろげるソファも欲しい。それから、それから……。
 そんな楽しい未来を膨らませていたホープを、まるで現実に引き戻すかのようにコミュニケーターの着信音が鳴った。黒のマグカップを棚に戻して、片手でコミュニケーターを取る。ホログラム映像には『スノウ』という文字が浮かび上がっていた。
「スノウ? 珍しいね」
 スノウもまた、ライトニング同様マメとは言い難い性格をしている。そんな彼からの久方ぶりの着信は、なんだか煮え切らない言葉から始まった。
「……え?」
 カシャン、と白いマグカップが割れる音がする。



『正直、俺もまだ信じられねえ。義姉さんが……
 あのライトニングが、パルスで死んだって』
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