2019.04.23 公開
2019.07.07 修正

#2

『このまま仕事になったから、今晩はもう帰れない。悪いが家の事は頼んだぞ、ホープ』
 よほど慌ただしかったのだろう。もしかしたらこの雷雨による緊急対応でてんてこまいなのかもしれない。
 必要最低限の事だけ告げて、コミュニケーターの通信はあっさりと途切れた。通話相手はもちろん、ホープの父親であるバルトロメイだ。
「……」
 反論する余地すらなかった。というより、仕事であるバルトロメイに反論する材料らしい材料もない。強いて言えば、この広いエストハイム邸は今晩ライトニングとホープの二人きりになってしまうという事くらいだろうか。それこそが、ホープにとっては大問題だと言えるだろう。
(ライトさんと二人っきり……)
 意識してしまうと体は正直なもので、どきどきと妙に落ち着かない。てっきりバルトロメイは帰ってくるとばかり思っていたので、三人なら大丈夫だよね、というホープの根拠のない安心感は根底から覆されることになったという訳だ。
 意中の、それも年頃の男女が同じ屋根の下で二人きり。十六歳男子としては、これで意識しない方がおかしい。
「ホープ」
「はっ、はひっ!」
 思わず上ずって変な声が出てしまった。慌てて咳ばらいをする。居住まいを正して、ホープは振り返った。とにかく、ライトニングにバルトロメイが帰れなくなったことを伝えなければならない。
「すみません、ライトさん。父さんが今日、仕事で帰れなくなり――…」
 ホープの言葉は、奇妙なところで途切れることになった。
「そうか。こんな天候の中、親父さんも大変だな。……ホープ?」
 ドアの前に立っていたライトニングが、訝しげに小首を傾げる。そうして、彼女は自分の身に纏っている服を見下ろした。
 先刻、ホープから預かったばかりの亡き彼の母、ノラ・エストハイムの服だ。薄手のクリーム色のセーターに動きやすそうなサブリナパンツという組み合わせ。流石に今の季節は寒いので、一枚厚手のパーカーを羽織っている。
 部屋の明かりとして灯した非常用のランタンでも、十分に認識できるはずだ。
「どこか変だろうか?」
「い、いえ! そんなことはありません。母さんの服なので、もしかしたらサイズが少し違うかもしれませんが……」
「大丈夫だ、問題ない」
 ノラは比較的身長があったようで、ライトニングと体格的にそう大きな違いはない。流行り廃れのないデザインなだけあって、ライトニングが着てもさほど大きな違和感はなかった。
「それは良かったです」
 ほうっと、ホープは安心したように息を吐く。そうして、少しだけ照れ臭そうに目を細めた。
「久しぶりにその服を見ました。……なんだか、懐かしくなっちゃって」
 ホープにとっては母親の形見となった服だ。大事なもので……それ以上に、母親を思い出す品なのだろう。
 ライトニングは苦笑を零した。二年前、ホープと二人きりで旅をした最初の晩、彼が夢うつつに「母さん」と口にしたことを思い出したからだ。
「思い出すのか」
 主語は語らなかった。だけど、ホープにはそれで十分に伝わる。
「ええ。その服は特にお気に入りだったみたいですから」
 よく買い出しに連れて行かれました。スーパーで、あれは良かったわ。これはイマイチ。そう言っては手に取って見るのが好きで、僕に意見を訊ねたりしていました。……その時の僕はあんまり興味がなくて、よく生返事をしては小言を言われたんです。結局、母さんは自分で決めちゃうことがほとんどでしたけど。
 遠い昔を思い出すように、ホープは訥々と口にする。まるでその情景が目に浮かぶようだ。
 ライトニングはノラのことを写真の中でしか認識したことがない。同じようにパージされた彼女とどこかで顔くらいは合わせていたのかもしれないが、その頃はまだホープのことなど知りもしなかった。
 今となっては、ノラの人となりはホープを通してしか分からない。しかし、二人はきっと仲の良い母子だったのだろう。それくらいは想像が付く。
「ホープ、今晩は一緒に寝ようか」
「はい、そうですね……ってええ!!?」
 ライトニングの言葉を前にホープは穏やかな笑みで頷いてから数拍の後、彼にしては素っ頓狂な大声を上げた。
「うるさいぞ」
「い、いやいやいや! ラ、ライトニングさん!? 今、一緒に寝るって……」
「ああ、言ったが」
 それがどうした? と、ことりと首を傾けるライトニングを前に、ホープは真っ赤になって「そんな」だとか「まだ心の準備が」とかごにょごにょ言葉を濁している。
「停電は暫く続きそうだしな。離れて眠るよりも、お互いすぐに認識できるように近くにいた方がいいだろう」
 そう口にするライトニングを前に、ホープがきょとんとした顔になる。それから一拍置いて、困ったように眉尻を下げたのが分かった。
「あ、ああ……。そういうことですか……」
「それ以外に何かあるのか?」
「いえ、何でもないです。……でも、そういうことなら」
 一緒に寝る必要ないんじゃないですか? 今はもう僕らは聖府軍に追われていませんし。
 ホープのその言葉は、寸前のところで飲み込んだ。
 ライトニングとホープがパルスのルシだったのは、二年も前の出来事だ。当時はコクーンの敵として追われる身であったために、常に周りに気を配る必要があった。二人で身を寄せ合って野宿したのは、お互いに迫り来る危険を察知するためだったと言ってもいい。敵に襲われる心配のない今の環境で、わざわざ近くで眠る必要などまるでない。
「どうした?」
 中途半端なところで言葉を飲み込んだホープを前に、ライトニングは不思議そうに瞬きをしている。
 断るのは簡単だった。必要ないです、そうホープが一言言いさえすれば、ライトニングはあっさりと「そうか」と認めて別室に行くだろう。それが正しいことだというのもよく分かっている。
(~~~~っ)
 ぐらぐらと理性と本能が揺れている。
 こんなチャンスなんて、そうそうあるわけがない。ライトさんがいいと言ってくれたんだから、うんと頷いてしまえばいいじゃないか。いやいや、いくら無防備だと言っても、ライトさんは妙齢の女性なんだから紳士的に接するのが筋というものだろう。こういうのは弟ポジションとは言え、反則みたいなもので――…そうやって二の足踏んでいたせいで、弟ポジのまま半年も間が空いたの分かってるだろ! このチャンスを不意にしてどうする!
 まるで天使と悪魔のホープが囁き合っているかのようだ。ぐらぐらと意識は揺れに揺れ、そうしてホープの中で決着は着いた。ほとんど絞り出すようにして、声にする。
「い、一緒に……寝たい、です……」
 薄暗くて良かった。でなければ、ホープの顔が熟れた林檎のように真っ赤になっていたのをライトニングに気が付かれてしまっていたことだろう。
「分かった。なんだか随分と久しぶりな気がするな」
 ホープの返答に対して、ライトニングは心なしか楽しそうだ。彼女なりに、当時のルシの旅を懐かしく思っているのだろう。
 当時は何もかもがいっぱいいっぱいで、生き抜くことだけで精一杯だったけれども、振り返ってみればホープにとってあの体験は何より大切なものになっていた。ライトニングもまた同じように思ってくれていたのだろうか。
 邪な思いでいっぱいになっていた自分を申し訳なく思う反面、それでもやっぱりライトニングと二人きりという状況が嬉しくないわけがない。
「私は床で構わないから、ホープは普段通りにしてくれ」
 そわそわと落ち着かなく身じろぎをしていたホープとは裏腹に、あっさりとそう言いきったのはライトニングだった。唖然となったのは当然、ホープだ。
「そんなことできるわけないでしょう。ライトさんが僕のベッドを使ってください。女性に床を使わせるわけにはいきません」
「ホープ。私がどこだって眠れるのは知っているだろう? 今更いちいち気にするな」
 慌てて立ち上がったホープとは対照的に、ライトニングはまるで頓着していない。事実、彼女はどんな状況でも眠ることが出来るように軍で訓練されている。魔物もいない、野外でもない。グラン=パルスで生き抜いてきた彼女にとって、エストハイム邸の床で眠ることなど造作もないことだろう。
「気にしますよ!」
 ほとんど反射的にホープは声を上げていた。
「ライトさんは僕のベッドを使ってください。これは絶対に譲れません!」
 ライトニングは確かにどこでだって眠ることが出来るだろう。だけど、それとこれとは別だ。好きな女の子を床で寝かせて、自分だけベッドで眠るなんて冗談じゃない。
 よほど必死な剣幕をしていたのだろうか。迫るホープを前に、ライトニングがきょとんとした表情になる。そうして彼女は、唇を綻ばせて微かに笑った。
「すごい剣幕だな。……分かったよ。ベッドを借りる」
 どうやら折れてくれるらしい。ホープとしてはなんとか面子を守った形だ。
「……ライトさんが床で寝るとか言い出すからです」
「別に変なことじゃないだろう?」
 この部屋の主はお前なんだから。
 意中の人が部屋の中にいて、おまけに一緒に寝るだなんて言いだされるホープの立場なんてまるで知りもしないで、ライトニングはさらりと口にする。
 思わず不貞腐れて、ホープは唇を尖らせた。
「僕だって男なんですよ。このくらい、格好つけさせてください」
「……そんな格好なんてつけなくとも、ホープにはホープの良さがある」
 ああ、まただ。こんな風に彼女が笑う時、ライトニングが酷く遠い存在になってしまったようにホープは思う。
 慈しむように。どこか誇らしげに。そうやって見つめてくるアイスブルーの眼差しに宿っているのは、紛れもない親愛だ。
 十四歳の頃は、その視線がただ純粋に嬉しかった。非力な自分に戦う術を教えてくれたライトニングは、ホープにとって師匠みたいな存在だった。
 正直なことを言えば、ライトニングの特訓はとても厳しくて、弱音ばかり吐いていたように思う。そんなホープをなんだかんだと言いながらも、結局最後まで面倒を見てくれた。いつか本当に背中を預けてもらえるように。そうやって前を向いて歩くことを決めたその時、彼女が初めて誇らしげに微笑んでくれたことは、今でも忘れられない。
 ライトニングのその微笑みは、ホープへの親愛の証だ。師匠が弟子へと向ける、男女のそれとは異なる類のものだ。
 ライトニングへと向ける想いが、いつしか師匠以上の特別な感情と移り変わっていったホープにとって、彼女の変わらない微笑みは、変わらない関係を映す鏡のようだった。
 七つの歳の差は、大人からすれば大したことではないのかもしれない。だけど、ホープとライトニングの間にあるのは、大人と子供という明確な線引きだ。いくらホープが背伸びをしてライトニングのことを意識しても、肝心の彼女はまるで気が付いてくれもしない。
 女の子として扱っても駄目。せめて一人の男として彼女に接しようとしても、簡単にあしらわれてしまう。
 学校で数えきれないほどのチョコレートを差し出されたって、何一つ嬉しくないのだ。本当に、本当に欲しいのは……目の前にいるこの人の、一欠けらの気持ちだけなのに。
「ホープ?」
 言葉もなく俯くホープを前に、訝しげにライトニングが小首を傾げる。
 彼女はきっと露ほどにも思っていないに違いない。一体どうすれば自分のことを意識して貰えるのだろうと悩んでいる、七歳も年下の気持ちなんて。
「……どうかしたのか?」
 例えば彼女を押し倒してみたらどうなるんだろう。電気が止まった広い家の中で、今はたったの二人きりだ。邪魔するものは何もない。あの肩を押して、ベッドに組み敷いて。耳元で低く囁いてみたら、少しは男として意識して貰えないだろうか?
 そこまで想像して、ホープは苦く唇を噛みしめた。
 それは、ライトニングの親愛を裏切る行為だ。気難しい彼女が心を許せる人間はそう多くない。せっかくのオフにわざわざ訪ねてきてくれたのは、ライトニングがひとえにホープのことを大切に想ってくれるからこそだ。そんな彼女の気持ちを裏切るような真似は、ホープにはどうしてもできなかった。
 未練を払うように首を振って、ホープは顔を上げる。
「すみません、ちょっと考えに耽ってしまったみたいです」
 それに、ライトニングを組み敷こうものなら逆に寝技をかけられそうだ。こんなに美人なのに、腕っぷしが超一流であることをホープはよく知っている。彼女の銃剣捌きに助けられたことは、一度や二度でないのだ。
 部屋の電気は未だ灯らず、非常用のランタンの光が頼りなく揺れている。
 言葉を濁して、ホープは隅に置いてあった運動用のマットレスに手を伸ばそうとした。しかし、雑念が混じっていたせいもあってか、足がもつれて転びそうになる。
「危ない!」
 そう聞こえた、と思った次の瞬間には腕を引かれていた。転んだにしては柔らかい感触があって、ホープは目を白黒させた。この感触は一体何だ。情報を正しく認識するよりも先に、下から声が聞こえてくる。
「よそ見をしながら動くんじゃない……」
 あまりの出来事に、ホープは思わずあんぐりと口を開いてしまった。
 見間違えでなければ……自分はその。ライトニングを組み敷いているのではないだろうか……?
「……ホープ?」
 両腕の下から、伺うように上目遣いになっている彼女の姿が見えた。そのあまりに予想外の光景に、思わずホープは眩暈がした。……こんなの、反則過ぎる。
 心臓が早鐘のように脈打っている。これ以上早くなったら、寿命が縮まってしまうんじゃないだろうかと心配になるくらいだ。
 腕の中にいる彼女は、ホープがよく見ていたライトニングのようでいて、少し違っていた。
 ずっと届かないと思っていたのに、気が付けば目線はすぐ傍にある。それどころか、ホープよりも一回りほど小さく見えるのだ。ライトニングの首や肩。それに腰。こんなにもホープよりも細かったのだろうか?
 鼻孔を擽るのは、花のような香りだった。クラスの女子の、誰とも似ていない大人の女の人の匂い。くらくらとする。
「……いつまでこうしているんだ」
 ホープの腕の下で、困惑したようにライトニングが声を上げる。
 腕を離すべきなのだ。ライトニングにとっては弟子のような少年であるホープ・エストハイムは、彼女の信頼に応えるべきなのだ。
 頭ではそう分かっている。分かっているのだ。なのに、脳裏に浮かんでくるのは、ライトニングの誇らしげな笑みばかりで。
 この関係を壊してはいけない。頼りに思ってくれているライトニングの信頼を裏切ってはいけない。言い聞かせれば言い聞かせるほどに胸の中は暗く、重く、濁っていく。
「……ライトさんを離したくないって言ったら?」
 ほとんど無意識に、するりと言葉は滑り出していた。
「え……」
 驚いたようなアイスブルーの瞳が見える。ホープのすぐ下で、ベッドに縫い付けられているライトニングが目を丸くしているのが分かる。
 それを認識した瞬間、ホープは自分が失言してしまったことを悟った。言うつもりなんてなかったのに、さきほどのやり取りを思い出して、反射的に口にしてしまったのだ。
 冷静になってしまえば己の失敗は火を見るよりも明らかで、さっと血の気が失せるのが分かった。一刻も早く撤回して誤魔化さないと。「冗談ですよ」そう口にして、なかったことにしてしまわないと、今の関係さえも壊れてしまう。
 あわあわと内心慌てふためいていたものだから、ホープは目の前にいるというのにライトニングの変化に気が付くのが少し遅れた。
「……ら、ライトさん?」
 薄暗い部屋の中だ。だから、ランタンの僅かな灯りを頼りにしないと、相手の表情はよく分からない。よく分からないはずなのだが、ホープの見間違えでなければ、ライトニングの顔は真っ赤になっていないだろうか……?
「えっと……?」
 これは一体どういうことなのだろう。
 ライトニングはホープのことを弟子のように思っているのではなかったのだろうか。そもそも、手の早い彼女が意に沿わないことに巻き込まれたと言うのに、未だにパンチの一つも飛んできていないこともおかしい。おまけにその顔は、熟れた果実よろしく真っ赤になっているというのだからおかしな話だ。
 釣られるようにして、ホープの体温もみるみるうちに昇っていく。顔が熱い。薄暗いとはいえ、ここまで熱くなってしまっているのなら、ライトニングには真っ赤になったホープの顔を見られてしまっているだろう。
 言葉は出てこなかった。お互いにお互いが真っ赤になったまま沈黙を守っている。
 これは一体どういうことなのだろう。ライトニングはホープのことを弟子と思っていて、興味の範疇外に置いていたはずだ。少なくとも、親しい弟分のように思っていたことは間違いない。
 それなのに、今目の前で……あのライトニングがホープを前に赤くなっている。これはもしかして。もしかしてのチャンスがあると思っていいのだろうか……?
「そういうことは簡単に言うもんじゃない。……からかうな」
 そっぽを向いて、ライトニングが絞り出すようにそう口にする。とは言え、真っ赤になった顔を見てしまった今、それが彼女の照れ隠しの行動であるということは明白だった。
「ライトさん」
 名前を呼べば、ぴくりと彼女の体が揺れるのが分かる。
「からかっている訳じゃないんです。……ライトさんだから。ライトさんだから、僕、そう言ったんです」
 口にした言葉は震えていた。大人っぽく気の利いた言葉の一つや二つ口にできれば良かったのに、言葉にできたのはありのままの等身大の自分でしかない。だけど、実際自分は子供なのだからしょうがない。そのままの自分でぶつかっていくしかないのだ。
「ライトさんのことが……好きなんです」
 色とりどりの煌めくようなラッピングが施されたたくさんのチョコレートはいらない。本当に欲しいものは――たった一つだけなのだ。
 万感の想いを込めてそう口にする。
 言ってしまった、という後悔にも達成感にも似た不思議な感覚があった。いずれにせよ、賽はもう投げられてしまった。
 後戻りはできない。言い換えればそれは、師匠と弟子であるあの心地の良い関係にはもう戻れないということを示していた。
 ライトニングのアイスブルーの瞳が驚いたように開かれ、そのまま見つめられるのが分かった。まるで、何もかもが見透かされそうだ。怯みそうになる自分を精一杯奮い立たせて、ホープはライトニングを見つめ返す。
 ピンクブロンドの髪にきれいな顔をしている。そうだというのに難しい顔をして、いつもどことなく怖そうだ。だけどそれは、あくまで彼女の表面だけの話だ。
 気難しそうに見えて、その実弱い立場の人間を放っておけない。律儀で、真面目で、ストイック。なのに、時々とんでもないことをしでかす危なっかしさがあって。そんなライトニングだからホープは目が離せなくて、いつしか目で追うようになっていた。
 心を許した人間には、ふんわりと目を細めて穏やかに笑う。そんな彼女の笑顔を見た時、本当に……本当に嬉しかったのだ。自分が心許される人間になれたことが誇らしくてたまらなかったのだ。
 叶うことならもっと傍で。心許せる弟分だけではなくて、それ以上の関係になりたい。
 いつしか物足りなくなっていた。あの心許した微笑みが、数少ない人間に向けられるものだと知りながらも、ライトニングの『特別』になりたい自分に気が付いてしまった。
 それは一体いつからなのだろう? 明確な契機、というものはあったようにも思えるし、なかったようにも思える。ただ、ある日ストンと自覚したのだ。
 ああ、ライトさんのことが好きなんだ――…。
 一度気が付いてしまえば感情に蓋をすることは難しく、かといって彼女をエスコートできる大人にもなりきれない。宙ぶらりんの自分を持て余したまま、大人と子供な狭間に揺れていた関係もこれで終わりを迎える。
「もっとあなたの近くにいきたい。傍で背中を守っていたいんです」
 我ながら酷く切実な声だった。それだけ切羽詰まっていたのだろう。逃げ場のないライトニングを前に吐露するように口にする。彼女は、ただじっとホープのことを見つめていた。
「……離してくれないか」
 最初に発した言葉は、拘束からの解放だった。静かな口調でライトニングはホープにそう告げる。
 やんわりとしていながらも、明確な拒絶。びくりと震えたのは、ライトニングを組み敷いているはずのホープだった。
 指先が離れる。ホープの拘束から解かれたライトニングが起き上がり、彼女は乱れた髪をさらりと梳いてみせた。
 そうして再び向けられたアイスブルーの眼差しは、どこか躊躇いがちにホープに向けられていた。
「なあ、ホープ。おまえは私を好きだと言ってくれた。……背中を守りたいと。傍にいたいのだと」
 長い指先が、緩くウェーブのかかった髪をくるくると弄ぶ。躊躇うように視線を落として、ライトニングは小さく呟く。
「それは今までと同じではないのか。……今までだって、おまえは私の背中を守ってくれていた。おまえは私の心の支えだよ」
「違います。同じじゃありません」
 ほとんど反射的に、ホープは声を上げていた。
「僕はライトさんのことが、一人の女の子として好きなんです」
 今までと同じでいられないか、と暗にライトニングは口にする。師弟というある意味で特別な絆で結ばれた関係を居心地悪いとはけして思わない。だけど、ホープにとってはそれだけじゃ駄目なのだ。
 それだけじゃ、一人戦地へ向かう彼女を引き留めることはできない。傍へ行くことができない。子供であることがこれほどもどかしいことなのだと、そうしてホープは初めて知った。
「ライトさんを抱きしめたい。叶う事なら、キスしたい。戦うことをライトさんが選ぶというなら、せめて見送る権利が欲しい。いってらっしゃいと見送って、おかえりなさいって笑いたい」
 だから、今のままじゃ駄目なんです。ライトさんの『特別』の権利が欲しいんです。
 ここまでくるともはや自棄っぱちだ。胸の中で描いていたほとんど妄想に近い想いを、噛みしめるように一つ一つ口にしていく。
 そんなホープとは対照的に、彼が言葉を重ねる度にライトニングは狼狽え、視線を彷徨わせながら、肩口まで流した髪を所在なさげに指先で弄んだ。
 抱きしめたい。キスしたい。赤裸々な言葉をぶつけられる度に赤面し、やり場のない感情を押し殺すように、ぎゅっと強く指先を握りしめる。
「……そんなこと、考えたこともなかった」
 ぽつりとそう所在なさげに呟く。いつも堂々としていて、時には不遜と言っても差し支えないほど権力者に対してふてぶてしい態度を取ることさえあるライトニングが、こんな頼りない一面を見せるだなんて、一体誰が想像できただろう。
 少なくともホープは初めて見た。同時に、こんな彼女を知っているのが自分だけだという独占欲が膨らんでいくのが分かる。……もっと知りたい。他の誰にも、ライトニングのこんな姿を見せたくない。自分だけに見せて欲しい。
「じゃあ、今から考えて」
 対象外だった、と暗に口にされて傷つくのはもうごめんだった。なら、今から考えて貰えればいい。こんなにもライトニングのことが好きで好きでたまらない人間がいるということを知って貰えればいい。
「僕を選んでよ」
 絶対誰よりも大切にする。あなたのことを考えている。
 出すべきカードを取捨選択するような余裕すらない。彼女に選んでほしくて、傍に居たくて。もはや無我夢中だった。
「……ホープ」
 ライトニングは心底弱り果てたように、目を伏せた。まるでどう口にしていいのか分からないかのようだ。口を開こうとしては、閉じて。それを何度も繰り返している。それは、言い換えれば彼女が迷っているという証でもあった。
「……ライトさんは、僕のことが嫌い?」
「そんなことはない」
「じゃあ好き?」
「好きか嫌いかで言えば……好き、なんだと思う」
 疑問形であるところに、彼女の迷いが窺い知れる。まるでこの気持ちが何なのか掴みかねているかのように。
「ライトさんは、どちらかというと好き嫌いがはっきりしていますよね。よく思っていない人は絶対に近づかせない」
 少しだけ躊躇って、それからホープはライトニングの頬に手を伸ばした。触れるか触れないかその寸前で、指先を止める。
「……触ってもいいですか?」
 躊躇うような瞳がホープを映し出す。ライトニングは言葉を返さなかった。肯定もなければ、否定でもない。
 ホープはそっとライトニングの頬に触れた。ぴくりと彼女の肩が揺れるのが分かる。だけど、ライトニングはホープを拒まなかった。
 ゆっくりと彼女の頬を撫でる。しっとりとして、すべすべとした感触だった。初めて触れたライトニングの頬は、ホープが思い描いた通りに滑らかで吸い付くようだ。ホープは腰を上げた。自然と二人の距離が近づいていく。
「……いいんですか?」
 やっぱり返事はない。二人の距離はいよいよ吐息が聞こえるほどの距離だ。もうあと少し体を伸ばせば、目的とする唇に触れてしまうことが出来る。ライトニングが突き飛ばさない限り。
 意を決してホープは伸び上がった。本当に心許せないならば、ライトニングは手を出すことだろう。彼女はそういう人だ。意に介さないことは、全身全霊で拒絶をする。そういうライトニングだからこそ、いい加減で事を流そうとしていた昔のホープは彼女に強く惹かれていった。そうして、彼女をきっかけにして変わっていけたのだ。
「――」
 一瞬とも永遠とも言えるような時間だった。
「……どうして、僕を拒まなかったんですか?」
 唇に触れた感触になんだか泣きたくなって、ホープは言葉を絞り出した。ほんの少し。重ね合わせるだけのキス。だけど、それはけして夢なんかじゃない。現実だ。
「……そういうことだ」
 照れ臭そうに、はにかむように。ライトニングが目元を綻ばせる。
「ちゃんと教えて」
 よほど切実な表情をしていたのだろうか。肩を掴まれたライトニングが驚いたように目を丸くして、それからうろうろと視線を彷徨わせてから、零すように「一回だけだぞ」と小さく口にする。
 ――そうして、彼女は顔を上げた。

「どうやら、私はホープのことが好きなようだ」

 その時のホープの感情をどう表したらいいだろう。
 泣きたいのと嬉しいのと、今までの想いが報われたということがぐるぐると渦巻いていて、よく分からない。一つだけ確かなことはと言えば、ライトニングがホープが傍にいることを許してくれたということだ。
「僕の彼女になってくれるってこと?」
「……まあ、そういうことに……なるな……」
 最後の方になると言葉は尻すぼみになって、ほとんど聞き取れない。だけど、ホープはしっかりと聞き遂げた。要するに、ライトニングとお付き合いができるのだ!
「ライトさん!」
「うわっ!?」
 感極まってホープはライトニングに抱き着いた。ぎゅうっと力を籠めれば、彼女の身体は思いがけずすっぽりとホープの胸に収まった。それがなんだか信じられない。
「嬉しいです……」
「……ホープ」
 噛みしめるようにそう口にすれば、不意にライトニングの指先がホープの背中に回った。応える様に、きゅっと抱き返してくれる感触がある。
「ねえ、もう一回キスしていいですか」
「……いちいち聞き返さなくていい」
「はいっ!」
 抱きしめて。キスをして。そうやって彼女に触れたい。いってらっしゃいと見送って、おかえりなさいって笑いたい。幾度となく願ったことの一欠けらが、今この腕の中にある。
 それがあまりにも夢みたいで嬉しくて、夢中になってホープはライトニングに触れていった。
 舞い上がりすぎて、少々夢中になりすぎた。
「そういうのはおまえが大人になってからだ、馬鹿!」
 その後、真っ赤になったライトニングの鉄拳が飛んできたことは割愛することにしよう。

   * * *

 激しい雷雨がまるで嘘だったかのように、翌日の朝は見事なまでの快晴だった。雲一つないまっさらな空を眩しそうに見上げて、ライトニングはエストハイム邸の扉を潜った。
「世話になったな」
「こちらこそ昨日はありがとうございました」
 にこにことホープが口にすれば、対照的にライトニングの頬が薄らと赤くなる。そういう初心な反応がものすごく可愛い。笑みを深くするホープの前に、小さな包装紙が差し出されたのはそんな折だった。
「過ぎてしまったが、これをやる」
「え? これって……」
「ガラじゃないとは思ったんだがな。……『彼女』になったんだから、別におかしなことじゃないだろう?」
 ホープの手の中にある包装紙は、よくある市販の、それもばら売りされているものだ。小銭一枚で買えてしまうような、小粒なチョコレート。
 照れ屋な彼女は一体どんな顔をしながらこれを買ったのだろうか。それを想像するとたまらなくなって、ホープは思わず手を伸ばした。ひょい、とまるで予見していたように、ライトニングはステップを踏んで躱してみせる。
「ここは外だ」
「……すみません」
 ぴしゃりとした言葉に窘められて、ホープはしゅんと項垂れる。どうにも昨晩から浮かれてしまっているらしい。
 まるでお預けを食らった犬のようだ。もしも尻尾があったのなら、今のホープはぺたんと尻尾を地面に落としているに違いない。
 そんなホープを前に、とうとうライトニングは口元を緩めて微笑んだ。
「おかえし、楽しみにしている」
 雨上がりの朝日が、濡れたパルムポルムの街並みをきらきらと反射させている。まるで世界が光り輝いているようだ。
 勢いよく顔を上げてから、ホープはその眩しさに目を細めた。そうして、いつもの軍服のマントを翻したライトニングに向かって、声を張り上げる。

「いってらっしゃい、ライトさん!」
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