2019.04.23 公開
voice
「ライトさん、唇を触ってください」
耳元で囁くような声がした。
――否。彼は、ホープは傍で囁いてなどいない。いつものようにスピーカー越しに、ただ語り掛けているだけだ。
祈りを叶える解放者としてノウス=パルトゥスを駆けまわる私を、いつも的確にサポートしてくれる声。
そうだというのに、一体どういうことなのだろう。まるで私の傍で、耳元で語り掛けるかのように、しっとりと湿った声が絡みついてくる。
私は、彼に促されるままに右の指先で唇をなぞった。腹から伝わるのは唇の感触以外何者でもない。それ以上も以下もないただの事象のはずだ。なのに彼は、まるで秘め事を囁くように、含みを持った声音で笑みを零すのだ。
「柔らかいですか?」
「……柔らかい」
固いか、柔らかいかで比べてみれば柔らかいの一択だろう。唇とはそういうものだ。
私は零すように、そう返事をする。
「どんな柔らかさ? 例えば?」
柔らかいと言っても、感触は様々だ。この微妙な加減を伝えようと思っても、言語化するにはなかなか難しい。私のようにあまり言葉が達者でない人間にはなおさらだ。
私は少しだけ考え込んだ。まもなく、心当たりのある感触を思い出す。
「……透明ゼリーみたいな?」
「ああ、それはいいですね。しっとりとして、すごく柔らかい……」
まるで耳の奥に滑り込んでくるかのようだ。じんわりとしたホープの声音が、体の奥に染み込んでくる感覚があって、私は思わず身を震わせた。
まるでホープがホープじゃないような。
これから、何か、いつもと違うことが始まるような。それを知ってみたいような。そうでないような。
不安と期待みたいなものが織り交ざったものが、私の中でぐるぐると渦巻いているのが分かる。
「ライトさん、僕の言う通りに……」
いつもサポートしてくれるホープの声。
ユスナーンでは宮殿に忍び込むためのルートを導いてくれた。ルクセリオでは、街の住人から集めた声を頼りに、儀式に侵入するための数字を探す手伝いをしてくれた。ウィルダネスで白チョコボを助けるために滋養のいいものを調べてくれたし、果てのない砂漠が続くデッド・デューンなんて、彼の声がなければ路頭に迷っていたことだろう。
ライトさん。いつもそうするように、ホープは私を導いていく。
「そのままゆっくり指を降ろして。……そう、首の付け根です。そこには何がありますか?」
「……鎖骨だ」
私は今、解放者の鎧は付けていなかった。アンビバレンスは鎧とそれに合う黒いインナーしかないような恰好だから、鎧がなければとても人前に出られるようなものではない。……アマゾネスの露出については割愛だ。あんなもの、置いた奴のセンスを疑うしかない。
ともかく、私はありのままの事実を口にした。指は、唇から首筋へ。骨と骨の間の隙間に指の腹を這わせれば、先ほどとは違って固い感触が伝わってくる。
「そのまま、ゆっくり、下に」
導かれるように指先を降ろしていく。胸と胸のくぼみ。少しだけ熱を持っている。ホープの言葉通り、ゆっくりと指を降ろしていく。
「そこはどこですか?」
「……む、胸だ」
少し、照れが入った。くすりとホープが微笑むのが分かる。恥じらいと、微かな戸惑いが入り混じった私の感情を見透かされているかのようだ。そう思うと、指を這わせている胸の奥がきゅっと縮むんだような気がした。
「そう、ライトさんの胸です」
どことなく楽しそうな声だ。昔はそんなこと口にすることもできなかっただろうに、神の遣いとして再び私の前に現れたホープは、すっかりすかした少年に変わっていた。
「ねえ、触って」
囁くように、そう、低く。
ぞくりとしたものが背筋を駆け登る感覚があった。年端もいかない少年の声なのに、まるで、どこか妖艶な男娼のような。絡みつくかのようにねっとりと、声の余韻だけが残っている。
「そ、それは……」
手を躊躇わせる私を、まるで言い聞かせるように声は囁てくる。
「心臓を触ってほしいんです。ライトさんの左の、胸」
心臓。この体に血潮を送る臓器。こころを収める器。そこに触ることに、何の後ろめたいことがあるのか。
何となく私は少し安心した。服の上から彼の指示通り辿ろうとして、さらりと遮られる。
「ちゃんと素肌で触って下さい」
「……」
私は目を閉じた。……ここには誰もいない。私一人だけだから、別に恥ずかしいことではない。元々下着同然なインナーは、ずり下ろせば簡単に乳房がまろび出る。
覆い隠すように、私は手のひらで左の胸に触れた。
「音は、聞こえますか」
「……ああ。どくん、どくん、と言っている」
当たり前のことだ。当たり前なのに、なんだかそれがとても不思議なことのように思えるのが奇妙な話だ。
どくん、どくん。心臓は音を刻む。
「……良かった」
耳元の声は、どこか安堵しているように聞こえた。だから私も、相手に見えるはずないのにこくりと頷いてみせる。
「ああ」
それは、私が生きている証だ。生きて、体が時を刻んでいる証だ。
――永遠に近い終焉の間際。その刹那のような時の中で、私の身体がまだ人間としての体裁を保っているという何よりの証拠だった。神に近づきつつあるとしても、私は、まだちゃんと人間だ。
「ねえ、ライトさん。僕のお願いを聞いてくれますか」
ねだるような声だ。私の耳元で、あどけない少年の声が揺れている。私は昔から、その声を聞かされると弱かった。
「このまま僕の言う通りに触って。……ライトさんの声を聞かせてください」
* * *
「……っ」
堪えきれない吐息が、唇から零れ落ちる。
「そう……。うん、お上手です。指でもう少し、強く、摘んでください」
不思議と拒む気にはなれなかった。ホープの声は、いつだって導いてくれる。彼が私の期待を裏切ったことなんて、一度としてなかったからだ。
乞われるがままに、私は人差し指と親指でその敏感な部分を摘み上げた。途端、甘い痺れがぴりぴりと電流のように体中を駆け巡る。
「呼吸が荒くなっています。……ライトさん、気持ちいい?」
はあっ、と艶めかしい吐息を吹きかけられているかのようだ。色を含んだ少年の声が、ねっとりと絡みついてくる。
「……そんなことまで、言わせるつもりか……っ」
「言ってくれなきゃ分からないですから。僕はライトさんのサポートです。……ねえ、気持ちいいですか?」
「……悪くは、……ない」
ホープの声に導かれて、ただ自ら触れているだけにすぎないというのに、どうしてこんなにも体が疼いて仕方がないのだろう。
ぷっくりと膨らんできた先端部分を言われるがままに抓めば、その度に腹の奥が期待で疼いてしょうがない。自然と足を擦り合わせる私を知ってか知らずか、耳元から流れてくるホープの指示は淀みがなかった。
「空いている手がありますよね。そう、そちらの手です。その手はライトさんのお腹を触ります」
左手が、もはや布切れとなったインナーの下を潜り抜けて、なだらかな腹部を辿っていく。
「おへそです。ライトさんの可愛いおへそ」
中指がへその窪みの中に触れる。浅い窪みの中に吸い込まれた指先に、私は思わずどきりとした。体は正直なもので、思わず喉が鳴る。このままホープの声に導かれて触れていったら、私は一体どうなってしまうのだろう。
「今、想像しました?」
くす、と笑う耳元の声は、明らかに含みを持っている。
「何をだ」
「しらを切らなくてもいいですよ」
まるで何でもお見通しだ。嗜めるようにそう口にして、ホープは声のトーンを落としてみせた。
「安心してください。ちゃんと最後までサポートしますから」
声は少年のはずなのに、この色気はどこからくるのだろう。ぞくぞくとしたものが込み上げてきて、疼く体を抑えきれそうにもない。私はほとんど無心になって、指先を下へと降ろしていった。
「そんなに待ちきれませんでした? ねえ、ライトさん。あなたの左手は……今、どこにあります?」
それを私に言わせるのか。羞恥に唇を噛みしめる私を、まるで傍で見つめているように声は囁いてくる。
「僕に教えて。ライトさん……」
艶を含んだその響き。甘えるように乞うその声に、私はとうとう観念した。
「左手は……その、足の付け根に、きている……っ」
これで満足したか、変態め。
「そんな恥ずかしそうな声で言ってもそそるだけですよ」
心の中で毒づいた言葉のはずなのに、反論が返ってくるのが怖すぎる。まるで心の中を見透かされているかのようだ。私の心の中は、私だけのもののはずなのに。
「左手の中指で、ゆっくり下から割れ目をなぞって下さい」
とうとうホープから具体的な指示が飛んできて、私はごくりと唾を飲み込んだ。
こういうことを自らしたことがない、というわけではない。解放者になってからは無縁だったものの、まだ私がボーダムで過ごしていた頃は、体が疼く夜は確かにあった。そういう時は、一人自分の身体に触れればそれで満足できたはずだった。
指先が、ゆっくりと割れ目を辿っていく。すでに湿りを帯びたその場所は、どこにも引っかかることなく進んでいく。
とは言え現象だけで言ってしまえば、ただなぞるだけの行為に過ぎない。……そうだというのに、どうにかなってしまいそうなほど心地いいのは、ホープに導かれているからだろうか?
「気持ちいい?」
「……気持ちいい」
ほとんど無意識に、私はそう返していた。
「よくできました。次はいよいよ正念場ですよ」
まるで、どこかへの潜入ミッションを口にするかのようだ。流れる水のように淀みなく、ホープは口にしていく。
「ライトさんが一番気持ちよくなれるところ。そこを、擦って下さい」
――ただし、その声は色を含んでいる。
指示のようでいて、何かを期待している声だ。一見そうだとは分からないだろう。だけど、解放者として耳元でホープの声を聞き続けた私には分かる。
ホープはスピーカー越しに興奮している。私の行為を通じて、彼もまた昂ぶりを感じているのだ。
それを理解した時、私の指先は自然と動き出していた。
「……っ」
くちり、と指先を動かすたびに粘着質な音が聞こえてくる。くちり、くちり。とろとろと滑る潤滑油を頼りに、指先が一番気持ちのいいところに辿り着く。
「水音が聞こえます」
耳元で囁く声は甘やかだ。まるで言い聞かせるようなその声を聞いていると、否応なしに体は反応してしまう。
圧して、潰して。それから、指を滑らせて。
ただ触れるだけなのに、声を耳にしているだけなのに。なのに、どうしてこんなに高まってしまうのだろう。ホープの声が聞こえるだけで、どうしてこんなに切なくなってしまうのだろう。
「感じています?」
「……っ」
「声を噛み殺しても、ライトさんの吐息が聞こえます。……もうすぐ、限界なんでしょう?」
ねえ、ライトさん。
ぞくりとするような声だ。ここにいるはずがないのに、まるでホープを前に丸裸にされているかのような錯覚にさえ陥ってしまう。
華奢に見えるけれど、その実私よりも一回り大きな指先が見える。あの指が私に触れて、泉の中を掻きまわして。それから一番、柔らかいところに触れてくるのだ。
「大丈夫。我慢しないで――…」
じゅぶ、と指先が奥に沈んだ。抜き出た指が、刺激を受けて張りつめたその場所を掠める。右手はもはやばらばらに胸を掴んでいた。左の胸。どくん、どくんと言っている。どくん、どくん。その音だけが世界を支配している。
「ライトさん……っ!」
何かを堪えるように、私の名前を呼ぶ声。そのあまりに切ない響きに、私はとうとう強く目を瞑って――…果てへと辿り着いたのだった。
* * *
はっとして、私は跳び起きた。
私は一体何をしていたのだろう。あまりの出来事に、一瞬呆けて、それから思わず顔を手で覆ってしまった。
手の隙間からは薄手の毛布が見える。薄暗い室内は、今がすでに夕刻であることを告げていた。
簡素なベッドとチェスト。それから化粧台が置いている程度のこぢんまりとした一室だ。カーテンのかかった窓の向こうでは、これからの時間が本番だとも言いたげな喧騒の気配が微かに漂っている。そこまで認識して、ようやく私はここがユスナーンの宿屋であることを思い出した。
なんということだ。よりにもよって、サポートしてくれるホープの声を頼りに……私は、あんな淫らな夢を見てしまったというのだ。
信じられなかった。冗談だと思いたかった。それなのに、夢の中の甘ったるい感覚がまだ全身に残っているような気さえしてしまう。
『ライトさん?』
不意に、通信機越しに思い浮かべていた相手の声が聞こえてきて、私は思わず飛び上がりそうになった。なんとか寸前で、肩を揺らす程度に留める。
『予定より少し早かったですが、お目覚めになったんですね』
いつものホープの声だ。甘ったるくもなく、体に絡みつくような湿っぽさでもない。ふんわりと包み込んでくるような、柔らかなテノール。
『体の疲れは取れましたか?』
「……ああ」
口の中はからからに乾いていた。唾を飲み込んで、なんとか湿り気を取り戻す。
『良かった。毎度のこととは言え、やっぱりあの錬金商の薬をライトさんが使うのは心配で――…』
私はチェストへと視線を向けた。そこには、一本の空になった小瓶が残されている。
そうして私はようやく、眠りにつく前に『それ』を飲んだことを思い出したのだった。
* * *
「いかがでございましたか? 霊薬の効能は」
丁寧な口調だが怪しすぎる薬物を調合するのは、広いノウス=パルトゥスと言えども、この錬金商くらいだろう。
今回の薬は「お眠りになった際にお使いください」とベルノから指示を受け、宿屋で眠る前に口にしたのがそもそもの発端だった。
本来目的としていた疲労回復どころか、とんでもない夢を見せられたというわけだ。
「疲労回復だなんてとんでもない。酷い目に遭った」
「おや……。毒と毒を掛け合わせると、無効化するということが前回分かりましたから、それに一味加えたら、新たな効果を引き出せないかと期待したのですが」
その様子では、疲労回復とは違う効果が出たようですね。ほほほ、と口元に長いローブの袖を寄せて、ベルノは意味深に笑ってみせる。
「今回調合したものの中には媚薬と呼ばれる類の毒がございました。一体、どのような夢をご覧になられたのやら」
「……おまえ」
確信犯か。じとりとベルノを睨み上げれば「これも、錬金術の新たなる一歩のために必要なことでございます」としゃあしゃあとした返事が返ってくる。
私は深くため息をついた。ベルノはこういう奴だというのは最初から分かっていたはずだった。付き合うと決めたのは自分だ。これ以上の押し問答は無駄でしかない。
『……結局、新しい薬を受け取ってしまいましたね』
問答の末に押し切られた薬を手にした私は、本日何度目になるか分からないため息を吐いた。
口達者な相手と口下手な自分ではそもそもの勝敗など見えていたようなものだ。私は「機会があったらな」とアイテム袋の中に怪しげな新薬を押し込んで、喧騒の中を歩いていく。
ちょんちょこ~。ガップルの毛玉焼きはいかがですか!
聞こえてくる人々の賑わいが、ユスナーンという街をいっそうきらびやかに見せている。
色とりどりのネオンの合間を潜り抜けながら、私は今夜も解放者として人々に手を貸すのだろう。
世界は間もなく終焉を迎える。その最後の一日までに、少しでも迷える魂を救うために。
『そう言えば、ベルノさんはさっきの薬に『媚薬』の効能のあるものが入ってたと言ってましたけど、結局のところどうだったんですか?』
「ホープ……。おまえまでそんなこと言うのか」
さらりと告げてきた言葉に、私は思わず眩暈がした。触れてほしくない話題だというのは、敏いホープのことだから、分かっているだろうに。
『だって、気になるじゃないですか。もしかしてライトさん、僕が出てきたりしました? ……なーんて』
「…………」
『え、ちょっとライトさん……ほ、本当に?』
咄嗟に言葉を詰まらせる。それが、敏すぎるホープには答えとなってしまったようだ。
私は慌てて声を張り上げた。
「そんな訳ないだろう! さっさと次のクエストに行くぞ!」
踵を返した私の後ろから、火種が一つ、空へと上がる。
ひゅるるるる、ぱん。
一輪の花が、ユスナーンの夜空を紅く色づかせていた。