2018.05.09 公開

ふたり、ひとつ

 何もかもが空っぽになったその部屋の主は、とうの昔に去っていた。
 荒れ果てた寒々しい部屋だ。幾筋も走る生々しい爪痕が残るその中に、ぽつねんと残されたひと振りの手鏡。見覚えのあるそれを、ヒロはそっと手にとった。
 手鏡はヒロからゼロツーに贈ったものだ。オトナたちからのプレゼント。浮かれていた十三部隊の中でゼロツーだけ何もないなんて寂しい気がするから。だから、ナオミが置いていってくれたものだけど。そう口にして渡した時の、ゼロツーの嬉しそうな顔をよく覚えている。
 「ボク、大事にするよ」無邪気な笑顔で、ゼロツーが口にした言葉。それがきらきらと輝いていて、ほんの昨日のことのように思い出せる。あの懐かしい日々はそう遠くない過去のはずだったのに、一体、どこでかけ間違ってしまったと言うのだろう。
 割れて粉々になった手鏡を見た時、ひどく寒気がした。慌てて戻った病室で、仲間たちがゼロツーの手によって傷つけられていた時、何か、取り返しのつかないものが壊れてしまったのだと知った。
 ゼロツーと会って、話がしたい。ただ、それだけのはずだった。たったそれだけのことだったのに。
「あの時、君は何を」
 残された手鏡に手を伸ばす。持ち上げたそれは、まるで持ち主の性格を表しているようだった。つぎはぎで、不格好で、めちゃくちゃ。それでも彼女なりに一生懸命だったのだろう。セロハンテープで割れた欠片を、歪に、それでも丁寧に繋ぎ止めていた。
 大事にするよ。笑っていたゼロツー。その言葉には、嘘偽りなんてなかった。
 壊れて、めちゃくちゃになって、もう取り戻せないなんて、勝手に思っていただけだった。――俺は、何をためらっているんだ。
 気がついた時には、ヒロは走り出していた。通い慣れた道だ。適正値がどんどん下がり続けてフランクスに乗れなくなったヒロが、それでも諦めきれずに何度も乗った訓練機。制服を脱ぎ散らかしてスーツに着替え、フランクスの足首程度しかない小さな機体に飛び乗った。
 ストレリチアの元に行かなくちゃ。ただ、その一心だけだった。
「ヒロ!?」
 ピンクのカラーリングが目を引くアルジェンティアが信じられないものを目にしたかのように声を上げている。その声を背にしながら、ヒロはただ、瓦礫の山となった十三都市の中を駆け抜ける。
 目の前には小型とは言え、山のような叫竜たちがいた。その、毒々しいまでに青く光るボディ。攻撃されれば反撃の手段などないに等しい訓練機で突っ込むだなんて、自殺行為もいいところだ。それでも、ゼロツーに会うためにはやるしかない。巨竜の隙間を縫うようにして、ヒロは機体を走らせていく。
 しかし、あまりにも数が多すぎた。叫竜が派手なイエローの訓練機を見落としてくれるわけがない。引っかかれ、それをオールで防ぎ、飛び上がってははまた進む。とうとう機体の脚部が引っかかって、訓練機はあっけなく宙に舞った。
 バラバラになった機体は、その勢いのまま砂煙の中を転がっていく。がつんと激しい衝撃があって、ヒロは訓練機の中でしたたか頭をぶつけた。まるで星でも飛んでいるようだ。ぬるりとした感覚がある。額に傷を負ってしまったようで、そこから真っ赤な血が流れ落ちていた。
 それでも、諦めない。諦めることなんてできない。ゼロツーは今もたった一人で戦い続けている。
 ハッチを開けて、転がり出る。大丈夫。体はまだ五体満足だ。立ち上がれ。走れ。これくらいが何だ。ゼロツーはもっと痛いにきまってる。一人ぼっちで、痛くて、苦しくて、つらくてたまらなくて。めちゃくちゃになりながらも戦っている。だから、俺はゼロツーのところまで辿り着かなくちゃならない!
「君が……君がいなければ、駄目なんだ!」
「ヒロ、なんで来たのさ! そんな訓練機でどうするつもり!」
 壊れた訓練機を守るように立ちふさがって、叫竜を切りつけたのは白と青の鋼鉄の乙女。デルフィニウムだ。
 地面に這いつくばるヒロを前に、イチゴが「絶対に行かせない」と口にする。イチゴはいつもヒロを気遣っている。その上で、ヒロの命が失われないように懸命になっているのだ。彼女の好意は知っていた。何度も背伸びをしながら贈られたキスで、痛いくらいに分かっていた。
 しかし、イチゴの言葉に反してデルフィニウムは腰を折り、手を差し出した。そんなことができる相手は一人しかいない。デルフィニウムの操縦席に座っているゴローだ。
 そのままデルフィニウムのハッチが開かれて、中からすらりとした長身の少年が現れる。ヒロと同じ黒いスーツを身に纏った彼は、ハッチから足を踏み出すと、短く口にしてみせた。
「ヒロ、乗れ」
「え……?」
「伝えないといけないことがあるんだろ」
 ゼロツーに。
 幼少期からずっと共にいた友人は、ヒロの気持ちを見透かすようにデルフィニウムの中に視線を向ける。ゼルフィニウムに乗って、ゼロツーに会いに行け。彼はそう言っているのだ。
 ヒロは顔を上げる。ゴローと目が合った。行け。彼のメガネの奥は、そう言っていた。

   * * *

 ゼロツーの角は、牡鹿のように太く、長く、枝分かれして育っていた。
 最後に見た彼女の角は、出会った頃に比べれば確かに伸びていたけれど、ここまで成長していなかったはずだ。一体、何が彼女をそうさせたと言うのだろう。
 違う。一人で戦場に出させたのはヒロだ。ゼロツーは仲間を傷つけた。ヒロはゼロツーを傷つけた。お互いにお互いを傷つけ合って、そうして二人は離れ離れになった。
「ごめん。触るよ、ゼロツー」
 反応のない操縦席から降りたヒロは、禍々しく伸びた彼女の角に触れる。両手で握り締めても、しっかりとした硬さを返してくるその角は、一体何でできているのだろうか。少なくとも“人間”であれば、このような角など生えてこない。
『ばけもの』
 何よりもその言葉を嫌っていたのに。恐れていると知っていたのに。
(お願いだ……もう一度)
 そう口にしたのは、一体誰だったのか。
(もう一度)
 それでも、やり直したい。喋りたい。会って、目を合わせて。あの無邪気なターコイズ色の瞳で見つめ返して欲しい。語りかけて欲しい。
 喋りたかった。伝えたかった。確かめなきゃいけないことがあった。雪の降るあの日、冷たい雪を踏みしめながら走った、赤い肌の女の子。絵本を宝物のように抱きしめていた、角の生えたあの子と。
(君のところへ――…)
 意識が、吸い込まれていく。白い、白い、あの日の記憶。
 薄暗くて、冷たい部屋の中。ピンク色の長い髪に、粗末な服を着せられた子供が青い血を流している。言葉は喋れない。だけど、知能がないわけではない。学習すれば、言葉を覚えられる。
『ボク』
 彼女が最初に覚えた言葉だ。
『ゼロツー』
 次に覚えたのは、彼女が貰った彼女のための名前。
『ダーリン』
 雪の降る平原で、絵本を見て笑っていた少年が発した言葉。
 小さな角の少女が、蹲って膝を抱えている。
 意図的に揉み消されて、ばらばらになった記憶の欠片を必死で掻き集めて、それでも思い出せなくて。あれは誰だったのだろう。顔も、声も、曖昧になって思い出せない。それでも、彼が教えてくれた言葉と、甘いキャンディーと、膝に触れた柔らかくて温かい感触は離さない。絶対に離したくない。
 これはボクのものだ。ボクだけの宝物だ。そうやって、白い世界の真ん中で蹲って丸くなっている女の子。
 なんだか泣きたくなって、ヒロは彼女を見下ろした。
(こんなにも傷ついてまで、たった一人、この世界で抗っていたんだ)
 膝を折る。長い角。赤い肌。小さくて、みすぼらしい、鬼のような容姿の少女。髪を撫でる。柔らかい。両手を伸ばす。鶏ガラみたいに薄っぺらいその肢体は、あっけないほど簡単に両腕の中に収まった。その輪郭が、薄らと光を帯びて消えていく。
 次の瞬間、ヒロが触れていたゼロツーの角は、高い音を立てて粉々に砕け散った。
 彼女の意識が覚醒する。涙に濡れたターコイズブルーの瞳。見上げた彼女は、震える唇で何かを紡ごうとした。半歩踏み出す。手を伸ばす。ぴったりとしたスーツの感触。
 抱きしめたゼロツーの体から、泣きたくなるほどいつものゼロツーの匂いがした。
「やっと会えた」
 喉から迸ったその言葉を拒絶するように、ゼロツーが振り払う。
「見るな……」
 だけど、その力はあまりに弱々しくて拒絶になっていない。
「ボクが怖くないの。ボクは君のことを利用したんだよ」
「そんなことはもういいんだ」
「だって、だってボクはダーリンのこと餌だって!」
 ステイメンの命を喰らうばけもの。ゼロツーは自らをそう称した。人間になりたいと願う彼女は、ステイメンの命を次々と刈り取っていった。
「俺だって化物だって言った!」
 だから。嗚咽混じりの声で、ヒロはゼロツーの体を抱き寄せる。
「一緒だ……」
 傷つけた。たくさん、たくさん、傷つけた。たった一人の唯一のパートナー。幼い頃に交わした約束もあったのに。何より大切にしたいと思っていたはずだったのに。
 傷つけて、回り道をして、いっぱいすれ違って。やっと、やっと、手が届いた。
「そうだ、ボクはばけものだ」
 ゼロツーは泣いていた。いつものツンと澄ました顔をかなぐり捨てて、そのターコイズブルーの大きな瞳からぽろぽろと涙を零していた。
「そうじゃない! ちゃんと話すんだ」
 強く叫ぶヒロの言葉に、ゼロツーがびくりと震えるのが分かった。言葉を上手く操れない少女。何度ばけものだ、と言われてきたのだろう。そう言われる度に、彼女は自分をばけものだと言い聞かせて、飲み込んできたに違いない。だから“人間になりたかった”。
「きっと行くところはあるよ。これから始めるんだ」
 現実的じゃないかもしれない。無茶苦茶でもいい。それでも、叫ぶようにしてヒロは口にする。
「きっとこの世界は俺たちが思うより、ずっとずっと大きい!」
 腕の中の小さなぬくもりは、まるで幼い少女のように嗚咽を零していた。もはや涙でその顔はぐちゃぐちゃだ。せっかく美人と言われたその顔を、涙と鼻水で汚しながら、ゼロツーはヒロの体にしがみつく。
「あの時は叶わなかったけど、今度こそ」
 白い、雪が降っていたあの日。しっかりと両手を繋いだ幼い少女と少年が走っていく。比翼の翼。二人でなら、きっと見たこともない場所だって飛び出していける。
「二人で外の世界を見よう」
 ゼロツー。
 彼女の名前を呼ぶ。ゼロツーの涙に濡れた瞳が、ヒロを映したのが分かった。
「俺たちは二人で一人だ」
 人間になりたかった女の子と、人間じゃなくなりつつある男の子。お互いに欠けているなら補い合えばいい。手を繋げばいい。欠けた翼でも、二人一緒なら飛び立つことができるから。
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