2024.03.15 執筆
2024.03.15 公開

甘やかし姫の前日譚

 ふと、目が醒めてゼルダは起き上がった。
 夜は深い。差し込む月明りは頼りなく、辺りは静まり返っている。
 剥き出しの肩がふるりと震えた。ハテール地方は過ごしやすい気候だとは言え、夜は肌寒い。特に昨晩は散々睦み合ったばかりなのだから余計にそう感じるのかもしれない。
 そこまで回想して、ゼルダは頬を赤らめた。
(お水を飲んできましょう)
 考えてみれば、喉がカラカラだ。脱ぎ散らかされた夜着を手早く拾い集め、隣で眠っているリンクを起こさないよう細心の注意を払ってベッドを抜け出した。
 静かでありふれた、だけど、どこか懐かしい夜だった。
 ハイラルを襲った未曽有の災害。初代ハイラル王家から今代にまで続く魔王との闘いに終止符を打ったのはつい先日のことだ。
 本当に、長い時間を不在にしてしまった。
 実際に流れた月日だけ数えるのならば、それは半年にも満たない出来事だ。しかし、ゼルダは秘石という奇跡の力で、万を超える時を旅してきた。その大半を龍に化身していたとはいえ、神話と呼ばれたかの時での出来事を昨日のことのように覚えている。実際、半年も経っていないのだ。あの時代で過ごした時はけして短くなかったからこそ、慣れ親しんだ今この瞬間が、不意に懐かしくなってしまう。
(皆にも心配かけてしまいました)
 カップの水で喉を潤し、ようやく人心地つく。慣れ親しんだハテノにある我が家は何もかもがゼルダの記憶のままだった。聞けば、不在の間はクレーヴィアが手入れしてくれたそうだ。つくづく自分は果報者だと思う。
「ゼルダ」
 名を呼ばれ、振り返ろうとしたところでふわりと抱きしめられた。
「リンク」
 起き抜けの温かな体温の上、上着を纏っていない。むき出しの素肌で抱きしめられると昨夜の情事を思い出してしまって、思いがけず上ずった声になってしまった。
 そんなゼルダの焦りを知ってか知らずか、リンクはゼルダの首筋に顔を埋める。
「どこに行くの」
「喉が渇いたので水を飲みにきました」
「そう」
 まるで甘えたな子犬みたいだ。背中から回された腕の力は相変わらずのまま、ふっさりとした小麦色の髪がすりすりと首筋に押し付けられている。
「もう飲み終わったので、戻りますよ」
「……ん」
 仕草は幼いのに、少し掠れた声音が妙に艶っぽくてどきりとしてしまう。
「明日はルージュに会いに行かなければなりませんから、ちゃんと寝ておきましょう?」
 言い聞かせるようにベッドに誘えば、リンクは大人しく付いてきた。やはり、ゼルダが離れたことを不安に思って追いかけてきたのだろう。
 隣り合わせで一つのベッドに収まれば、まもなく悪戯な右手が脇腹に忍び寄ってきた。好きにさせていると、次第に遠慮がなくなってきて、ゼルダの柔いところに手が伸びてくる。
「もう。明日はゲルドの街に行くって言ったでしょう?」
「だめ?」
「…………だめ、です」
 恋人の上目遣いに思わず揺らいでしまいそうになるけれども、ここは死守しなければならない。でなければ、明日ルージュに余計な心配をかけてしまうことになる。
「分かった。じゃあ、ゼルダのことぎゅっとしていい?」
「それならどうぞ」
 いくらでも。言い終る前に、リンクの腕が伸びてくる。
 ぎゅっと掻き抱く腕の強さは、まるでゼルダがここにいることを確かめるかのようだ。応えるように抱きしめ返せば、安堵したようにリンクの肩の力が抜けるのが分かった。
「おやすみなさい、リンク」
 いい夢を。
 その目尻に光るものに気が付かなかった振りをして、ゼルダはそっとリンクの頬に口付けた。

   * * *

 リンクの過保護ぶりは加速していく一方だった。
 近衛騎士であった頃からリンクは忠誠心の高い騎士だった。だからこそ、厄災討伐を果たした後の彼は、ただひたすらに国の再興を目指すゼルダの騎士として務めを果たそうとしていたのだろう。
 それがあの日、手を繋ぐことが出来なかった。
 口にしてしまえばたったそれだけのこと。だけど、リンクにとっては夜明けの来ない闇夜に閉じ込められるようだったと言う。
 慣れ親しんだハイラルの地に帰ってきたゼルダに、リンクが告げた言葉は、今も胸の中を温かく照らす灯となった。
 それからあれよあれよという間に男女の仲になり、広く知られることになるのだが、公然の仲になったことをいいことに、リンクはどこにでも付いて行きたがるようになった。
 それこそ、男子禁制の街、ゲルドにあるホテル オアシスでさえも。
「エステ中も外で待ってるって、仲がいいことだね」
「ゲルドの街は安全なので、好きなことをして待っていていいですよと言ったのですが……」
「特例でお許しが出ているとは言え、ヴォーイには居心地が悪いんじゃないかい? あまり気にしてもしょうがないよ」
 口にしたのは、ナンバーワンセラピストのアローマだ。寝不足気味で顔色の悪いゼルダを気遣って、ルージュが手配してくれただけあって、アローマのフィンガーテクは素晴らしかった。程よい指圧で全身溶けだしてしまいそうな心地よさだ。
「この一連の騒動で、リンクにかけた心労は計り知れません。ですから、私も彼に何かしてあげられたらいいのですが」
 思いはするが、何をすればいいのか皆目見当がつかないのが正直なところだ。
 こっそり準備をしたくても、当然のようにリンクは付いてきてしまうし、そもそも彼の物欲は薄い。仮にあったとしても、リンクは欲しいものを自分で調達して来てしまうので、ゼルダが手を回す余地がないのだ。
「一体どうすれば……」
 呟くゼルダの足裏をアローマの指先が丹念にマッサージしていく。それを見守っていたゼルダは「そうです!」と愁眉を開いた。
「アローマ、私にマッサージのコツを教えて貰えませんか?」
「ど、どうしたんだい?」
 突然の言葉に、アローマは手を止めて目を白黒させている。ゼルダは両手を握り締めた。
「リンクをマッサージで癒してあげるんです!」
 どこにでも付いてきたがるのは、リンクの不安の裏返しだ。不安な気持ちは彼自身の心の問題で、それはゼルダなくして解決はあり得ない。
「姫様がマッサージだなんて、とんでもないよ! それならアタシが……」
「いいえ。私がやらなければ意味がないんです」
 慌てた様子で身を乗り出したアローマを前に、ゼルダは緩く首を振る。
「それに、その……。リンクに他の女性が触れるのは、ちょっと……」
「ああ、そういうこと」
 ゼルダの言葉に得心がいったように、アローマは頷いた。
「それならヴォーイを落とす、とっておきのフィンガーテクを伝授しないとね」
 悪戯っぽい眼差しでウインクされる。神の手と呼ばれるアローマに師事して貰えるのなら、これ以上心強いことはない。釣られるように、ゼルダの声音も明るくなった。
「よろしくお願いします、アローマ!」

 かくして寂しがり屋の勇者を癒す為、ゼルダは公務の合間を縫って神の技を習得することになった。
 これは甘やかし姫によって勇者がとろとろに蕩けるまでの前日譚である。

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