2020.04.27 執筆
2020.10.04 公開

じーさんとおれ

誰かに呼ばれたような気がした。
 知らない声だ。……おれの知らない、不思議な声。だけど、どこか懐かしいような気もする。どうしてだろう?
 おれは体を起こした。体が濡れている。おまけにハダカだ。いや、パンツは履いているか。
 一通り体を見下ろしてから起き上がったら、頭がくらくらとした。まるで、ずいぶんと長い間眠っていたみたいだ。
「……そう言えば、ここどこ?」
 見渡したあたりの風景に覚えはない。そもそも、自分がどうしてこんなところで眠っていたのかも思い出せない。
 ううんと頭を捻ってみても、やっぱりごつごつとした岩肌に覚えはなかった。それどころか、自分が何者なのかも思い出せないことに気が付く。ものの見事に、なーんにも思い出せない。
「まあ、いっか」
 ぽりぽりと頭を掻きながらおれは独り言ちた。思い出せないものは思い出せないのだ。仕方ない。
 綺麗さっぱり記憶のことを水に流したおれは、部屋の片隅に光る青色を見つけた。
 なんだろうと思って近づいてみると、それは石の台座だった。おそらく人の手が入ったものだろう。綺麗な円型にくり抜かれた先端部には幾何学的な模様が光っている。青いと思ったものは、どうやらこの部分らしい。
 試しに手を伸ばしてみたら、ぴかっと青色が強くなる。中心の台座がくるりと回転して、その中から四角い板のようなものが出てきた。
 なんだこれ? と頭を捻っていると、また不思議な声が聞こえてくる。どうやらこの板はシーカーストーンと言うらしい。なるほど、なるほど。色々教えてくれて便利な声だなあ。
 ガラガラと騒がしい音を立てて上がっていく扉の先に、樽やら木箱やらを見つけた。そこに箱があれば、開けるしかない。ほとんど脊髄反射で木箱を開いたおれは、中から古びたシャツとパンツを見つけた。あちこち擦り切れていて、おまけに着古されているが、履き心地は悪くない。パンツ一丁よりは、文明人ぽい感じがする。いや、おれがどんな奴だったか知らんけどさ。
 ベルトにシーカーストーンをぶらさげて、おれはこの洞窟(?)の中を探検してみることにしてみた。もしかしたら服以外にも何かいいものがあるかもしれない。落ちている樽や木箱を物色しながら縦長な空間を進んでいくと、やがて橙色に光る台座に辿り着いた。
 すかさずさっきの声がシーカーストーンをかざせと言ってくる。なんだかよく分からないけれど、かざすと道が開かれるらしい。言われた通りシーカーストーンを台座にかざすと、台座が橙色から青色に変わる。
 ロックを解除しました。無機質な音声が流れたと思った次の瞬間、目の前の岩が細かく縦に裂けて、四角い空間が顔を覗かせた。
「うわっ」
 その先に光が見えて、おれはそのあまりの眩しさに思わず目を瞑った。
 今まで薄暗い中にいたのだ。突然強烈な光が差し込んでくれば、目が慣れるまでに時間がかかるというものだ。
 おれは迷わず光に向かって走っていった。階段は途中で途切れていて、岩肌が露出している箇所はよじ登る。そうして暗がりの中を飛び出したおれは、瞳の中に飛び込んできた光景に思わず感嘆のため息を零した。
 おれが眠っていたのは高台にある祠のようだった。その先で見た風景の、なんと素晴らしいことだろう! 遠くには尾根が連なっており、その中にひときわ立派な火山がそびえ立っている。広い平原に広がるのは瑞々しい新緑だ。雨上がりなのだろうか? 地面からは湿った土の匂いがしていて、草や花は露に濡れている。それらがまるで生きた宝石みたいにきらきらと輝いているのだ。
 思わず言葉を失うような力強さと、その中にある美しさ。想像を超える広大な世界に声もなく立ち尽くしていたおれは、ようやく我に返った。このまま見とれていたら日が暮れてしまう。
 とにかく、目的地を決めないと。声に導かれるまま外に出てみたのはいいけれど、何をすればいいのか分からない。おれはきょろきょろと辺りを見渡していると、坂道を下った先に焚き火に当たっている人影を見つけた。
 誰かいる。……ということは、ここがどこで、おれが何者なのか聞いたら教えてくれるかも!
 目先の目的が見つかると、俄然やる気が出るものだ。おれは焚き火に向かって勢いよく走っていった。
 焚き火に近づくに連れ、側にいる人の姿もはっきりと識別できるようになってきた。がっちりとした体躯の黒いフードを被った老人だ。顎には見事な白ひげがたっぷりと広がっていて、それがリンゴに齧りつく度にゆさゆさと揺れている。しゃりしゃりと小気味のいい音を聞いていたら、おれの体は栄養が必要であることを思い出してしまったらしい。
 ぐうう、と盛大に腹の虫が鳴った。腹減った、そう自覚した時には、焚き火の側に転がっていた焼きリンゴに手が伸びている。
「こりゃ! わしの焼きリンゴじゃぞ!」
「ご、ごめんなさい!」
 手癖の悪い子供を叱咤するような声に、おれは思わず飛び上がった。
 落ちているからいいと思った。だけどこれは、じーさんの焼きリンゴだったらしい。
 すっかり縮み上がったおれとは対象的に、じーさんは白い髭で撫でながら鷹揚に笑ってみせた。
「冗談じゃよ」
 リンゴはこんがり焼いた方がうまいんじゃ、そう言いながら穏やかな黒目を向けている。どうやら、おれに焼きリンゴを分けてくれるらしい。
 手の中にあるリンゴは表面が焼けていて、まだ少し熱を持っている。ほとんど促されるままに口元に運べば、甘酸っぱい香りが鼻に抜けていく。一口噛むと口の中で甘味が広がり、二口食べればそのほっくりとした噛み応えの虜になった。気がついた時には焼きリンゴはなくなっていて、どうやらおれは夢中になって食べてしまったらしい。
「それだけうまそうに食ってくれるなら、譲った甲斐があったわい」
「うん、すごく美味かった。おかわりない?」
「図々しい奴じゃのお。おかわりはなしじゃ」
 それが最後の一個だったからのう。じーさんがそう言って、おれは心底がっかりした。すごく美味しかったから、もっと食べたかったのに。
「なに、リンゴの木ならそこら辺に生えておる。そんなに気に入ったなら、自分で焼きリンゴを作ればいいじゃろう」
「おれでも作れる?」
「難しい料理じゃないからの。それにしたって、こんな辺鄙なところで腹をすかせて彷徨っているだなんて珍しい旅人もいたもんじゃ」
 何かを探るような黒目がおれを見る。そんなじーさんの顔をまじまじと眺めて、おれはありのままのすべてを口にした。ていうか、別に隠すことでもないし。
「おれ、記憶がないんだ。さっき目覚めたばかりだから、旅人じゃないと思う」
 驚いたような黒目がおれを射る。――それが、じーさんとおれの初めての出会いだった。

   * * *

 じーさんは、おれの知らないことをたくさん知っていた。
 例えば、パラセール。それがあれば、高いところから思いのままに滑空できるらしい。シーカータワーから降りてきたおれの目の前に、パラセールで滑空してきたじーさんはめちゃくちゃ格好良かった。
 おれも欲しい! そう口にしたら、祠の中にある宝と交換だと言われた。俄然やる気になって祠の試練をこなして出てきたおれに、じーさんは言う。祠をあと三つ回って克服の証を手に入れてきたら交換してやろう。
 話が違う、パラセールは? そう言ってしつこく強請ると、話を聞かんか! と叱られた。約束を勝手に変えたのはじーさんの方なのに。ケチ。
 なんだかじーさんの言う通りにやるのは癪だったので、おれは祠のことを無視することにした。だって、せっかく頑張って祠を攻略しても、またじーさんに嘘をつかれるかもしれない。だったら最初からやらない方がいいに決まってる。そんなことより、もっとこの場所を探検してみたい。おれが初めて見た世界はまだまだ広くて、薄暗くて湿っぽい祠よりもずっとずっと魅力的に映ったのだ。
 だって、何をやるのも自由だ。なんにも覚えてないってことは、何をやるのも初めてってことだ。おれは拾った斧で木を伐ってみた。薪を作った。リンゴを拾った。焚き火に薪をくべて、その側で焼きリンゴを作ってみた。口いっぱいにほくほくの出来立てを頬張る。うまい。熱い。甘酸っぱい。うまい。でも、リンゴだけじゃ腹は満たせない。
 おれはまたパンツ一丁になって池の中に飛び込んだ。狙うのはもちろん魚だ。散々追いかけ回して(しかも溺れかけた)、ようやく一匹捕まえた。
 やっとリンゴ以外にありつける。ほくほくしながら焚き火に近寄っていったら、じーさんはなんと三匹も魚を焼いていたのだ! そうしてもふもふしている立派な顎髭を撫でながら、にやりと言ってのけたのだ。
「なんじゃ、それっぽっちかのう?」
「……」
 それっぽっちだとしても、おれはこの一匹しか捕まえられなかったのだからしょうがない。三匹捕まえたのはじーさんの魚捕りが上手だったからで、おれの取り分が少ないのはおれがへたっぴだからだ。
 ぐうう、と腹の虫が鳴った。三匹もあるならリンゴの時みたいに横から取っちゃえばいいかも。一瞬だけそう思って、おれはその考えを封じた。
 魚一匹であんなに苦労したのだ。じーさんは三匹捕ってきたのだから、おれよりもっと頑張ったに違いない。それを後からやってきた奴に奪われたら、怒って当然だと思う。
 おれは唇を尖らせた。腹の中でぐるぐるとしているこの気持ちをどう表していいのか分からなかったのだ。
「すまん、すまん。意地悪が過ぎたようじゃの」
 顔をしかめて黙りこくっているおれを前に、じーさんは目を細めてみせる。
「お詫びに一匹わしのを分けてやろう。腹がすいてるじゃろ」
「……でも」
「わしがいいと言ったのじゃ。人の善意を受け取るのも大事なことじゃよ」
 じーさんとおれは二人で焚き火を囲んだ。途中雨が降ってきたけれど、岩がせり出して天井のようになっているこの場所は暖かかった。焚き火でじっくりと焼いた魚は、皮はぱりぱり、身はほっくりとしていてうまかった。リンゴと違って、体中にエネルギーが広がっていくような感覚すらある。
「闇雲に追い立てるだけじゃうまくいかん。魚をうまく捕まえるコツは、道具を使うことじゃ」
「道具? 何を使うの?」
「最初から答えを言ってしまうと面白くないじゃろう? こういうのは自分で考えるのが大切なんじゃ」
「ケチ」
「こんな辺鄙なところで暮らしている老人が偏屈でないわけないじゃろう」
 そう言ってじーさんはカラカラと笑う。だけどもう、嫌な気持ちはしなかった。じーさんは自分がとったリンゴや魚を快くおれに分けてくれたことを知っているからだ。
「もうずいぶんと長い間、独りでここに生活しておる。こうして誰かと食事をするのは久しいな」
「他に人はいないの?」
「始まりの台地では、わし以外の人を見かけたことがないのう。この台地を降りていけば、人里もあるじゃろうが……」
「じーさんはパラセールがあるんだから、降りていけばいいのに」
 思わずそう口にすると、じーさんは面食らったように目を瞬かせて、少しだけ寂しそうに笑みを深めた。そんなじーさんは正直おれにとっては予想外で、妙に居たたまれない。
「……まあ、降りられちゃったらおれがパラセールを貰えなくなるから困るけどさ」
「おお、貰う気は一応あるんじゃな」
「祠がだるい」
「お主は思うことを赤裸々に語り過ぎじゃ」
 茶化すように口にしたおかげか、じーさんの調子が戻ってきたようだ。もしかしたらおれの気のせいだったのかもしれないけど、ああいう神妙なじーさんだと調子が合わない。
「魚をうまく捕るヒントもあそこにある」
「うへえ」
「そう言うでない。ご褒美はちゃーんと用意してあるのじゃから」
「後でと言わず今すぐ欲しいパラセール」
「駄目じゃ」
「ケチじーさん」
「どうとも言え、じゃ」
 どうしてもおれを祠に行かせたいらしい。克服の証を手に入れる過程って、結構ひやっとしたりすることもあるんだけどな。……まあ、シーカーストーンに新しい機能が追加されるのは面白いけどさ。
 そこまで考えて、シーカーストーンという単語にぴんとくる。もしかすると次の祠に行けば、ビタロック以外にも便利な力が手に入るってことかもしれない。
 おれは顔を上げた。
 雨が上がったみたいだ。いつの間にか空に雲の切れ間ができていて、そこから星の光が瞬き始めている。気が付けば辺りはすっかり夜の帳の中で、露草の間からは虫がリーと鳴き声を立てていた。
「とりあえず、祠は明日からかな」
 ごろんと焚き火を前に横になる。寝て起きたら記憶がなくて、知らない声に導かれるまま台地を駆けずり回ったのだ。横になってみれば、自分が疲れていたことを自覚して、急速に眠気が襲ってきた。そのままストンと、暗闇の中に吸い込まれるように眠りの世界に落ちていく。
「まったく……腹が膨れて寝るとは子供みたいじゃな」
 意識を手放す最中、呆れたような……だけど、優しさを含んだじーさんの声が聞こえたような気がした。
「おやすみ、リンク」

   * * *

「我が名はローム・ボスフォレームス・ハイラル」
 そう名乗ると同時に光に包まれたじーさんの姿は、次の瞬間、目の醒めるような青い豪奢なローブを纏った王の姿に変わっていた。輝く黄金色の王冠。威厳あるいで立ち。顔は確かに知っているもののはずなのに、まるで知らない人のようだ。
 おれは呆気にとられるしかなかった。
 だって、そうだろう? 今までこの台地で色んなことを教えてくれたじーさんが、突然王になったのだ。それだけじゃない。この世界は100年も前から厄災ガノンに蝕まれていて、封印の力を持った王の娘が辛うじて封印している。そしておれは、その姫を守っていた騎士だというのだ。
 王は告げた。
 国を護れなかった自分が言うことではないけれど、民と……それから娘を助けてくれ、と。
「記憶を失ったお主にとっては眉唾だろうが、これはすべてまことの話なのじゃ」
 そんなことを言われても、と思う。
 おれには記憶がない。今までどう過ごしていたのか、どんなふうに考えていたのか。そういったものが全部綺麗さっぱり抜け落ちていて、おれの中はからっぽなのだ。そんなおれに、災厄だの姫だの、世界を救えだの言われても、実感が伴うわけがない。何より、おれがそんな特別な使命を持った人間だとは到底思えなかった。
「そんな顔をするでない」
 難しい顔をしていたのだろう。顔をしかめたおれを前に、王は見慣れたじーさんの顔になった。
「……目覚めたお主を混乱させることがないよう、儂はただの老人としてお主に接しておった」
 結果としては騙すような形になってしまったかもしれないが。そこまで言葉を続けてから、じーさんは眉を下げて笑う。
「とうの昔に滅びた身じゃ。儂にできることは、せめて記憶を失くしたお主を導くことじゃった」
 そうして焚き火の前でそうしたように、黒目を細めておれを見る。
「お主にしか頼めぬことなのだ。……頼む」
 正直、民とか姫とか言われても、今のおれにはぴんとこない。
 だけど、一人の男がーー己の守りたかったもののすべてを託そうとしている。それくらいのことは分かる。
「そんなしけた顔じゃなくてさ、じーさんはじーさんらしく得意げに笑っていればいいんだよ」
  少なくとも、おれはそっちの方がいい。だからおれは、にやっと笑って胸を叩いてみせるのだ。
「だからさ、大船に乗ったつもりで任せてくれよ」
「……まったく、調子のいいヤツじゃの」
 驚いたように目を丸くして、それからやれやれ、とでも言いたげにじーさんは肩をすくめてみせた。呆れたような口ぶりで話すその声は、ひどく優しい。
「知ってるだろ?」
「目覚めてからのお主には驚かされてばかりじゃよ」
 じーさんは昔のおれのことを知っていた。だけどけして比較したり、強引に過去のことを思い出させようとしたりはしなかった。今のおれのことを認めて、その上で見守ってくれていたのだ。
「約束するよ」
 目が覚めて、声に導かれた。
 飛び出した世界は呆気にとられるほど広くて、自由で。……おれはそんな世界をどうやって歩けばいいのか、一番最初にこの人に教えてもらった。
 火をおこすことを。食べ物のとり方を。料理の仕方を。道具の使い方を。そして、他愛のないことで笑い合うということを。
 そんなじーさんだからこそ、おれは託されようと素直に思えた。
「……約束といえば、これも約束であったな」
 そう口にしながらじーさんが懐から取り出したものに、おれは目を見開いた。
「これがあれば崖の下にも降りていけよう」
 パラセールだ。
 欲しくてたまらなくて、かなりしつこくまとわりついたから、ずいぶんと鬱陶しがられたものだ。
 台地にある祠すべてを回ったら渡そう。交換条件として口にした言葉を、じーさんはちゃんと守ってくれたのだ。
 手渡されたパラセールは思った以上にがっしりとしていた。これが人間一人を乗せて飛ぶのだから、本当にすごい。両手でそれを受け取りながら、おれはほとんど反射的に顔を上げた。
「頼んだぞ、リンク」
 青白い光と共にじーさんが消えていく。
 別れだ。直感的にそう感じて、おれは声を上げかけた。それを、寸前のところでなんとか飲み込む。
「ああ」
 絞り出した言葉に、薄れゆくじーさんがにやりと笑ったような気がした。まるで蛍火のような光が闇の中に溶けていく。そうして、後には静寂だけが残される。
 朽ちた時の神殿の中には、まるで最初からおれ一人しかいなかったかのようだ。吹き抜ける風の冷たさを感じながら、おれは握りしめた拳をゆっくりと開いていった。
 ……引き止めるのではなく、笑って送り出すべきなのだと思った。あれが本当に正しかったのかは分からない。だけど――おれには託されたものがある。
 おれは平原を見下ろした。台地の遥か先、その先にそびえ立つ荘厳な城は今、禍々しいまでの邪悪に包まれている。
「すげえもん、託されたよなあ」
 なにせこの国の民と姫だ。記憶喪失には過ぎた託されものだと思う。
「でもまあ、やるっきゃないよな」
 からっぽだったおれに目的ができた。それが成せるかどうかは、今はまだ分からない。だけど、じーさんはおれにちゃんと手掛かりを残してくれた。
「カカリコ村、か……」
 目指すは双子山の向こう側。丘を抜けたその先に、シーカー族の隠れ里があるという。そこにいるインパを訪ねろと、じーさんは言った。
 時の神殿から見渡した世界は、相も変わらず壮大だ。なだらかな草原の奥には新緑が茂り、大地を川が分断している。水面は光を受けてきらきらと輝き、時折魚が思い出したように飛び跳ねる。群れを作って羽ばたく鳥。駆けてゆく鹿。見渡す先の光景には、飽きるということがない。
 どうしようもなくわくわくする。目覚めた直後に感じた強烈なそれは、今も何ら変わっていない。それどころか、ますます強くなっているような気すらした。
「この先に何があるのかな」
 答えはない。それは教えてもらうものではなく、自分で掴むものだ。
 おれはパラセールを掴んだ。

 ――初めて空を飛んだ日。そのことを、俺はきっと忘れないと思う。
「へえ、そりゃあパラセールかい」
 珍しいものを持ってるんだな。そう口にしたのは、馬宿で焚火に当たっていた旅人だった。壮年と言っていい年齢の男は、俺が補強をしているパラセールを物珍しげに眺めている。
「ずいぶんと使い込んでるんだな。そこまで手を入れてるのなら、新しいものと交換した方が早いんじゃないか」
 気安い性格らしい。人の良さそうな男が口にした言葉に、俺は釣られるようにしてパラセールへと視線を落とした。
 すっかり相棒と呼べるほどに使い込んだパラセールは、傷んだ箇所を補修して使い続けている。空の上で命を預けるものだから、男の言葉は尤もだろう。それでも俺は、このパラセールを手放すつもりは毛の先ほどもなかった。
「こいつじゃなきゃ駄目なんだ」
 言葉は自然に滑り出た。手のひらでごわごわとしたパラセールを撫でる。雨の日も、風の日も、晴れの日も、雷の日も。こいつはいつも、俺の背中にあった。
 俺の言葉に、男は一瞬だけ目を丸くすると、なるほどと口元に手を当ててみせた。
「野暮な言葉だったな。悪かった」
「いや、いいよ」
 思い入れなんて、その人にしか分からない。記憶というのはそういうものだ。外側から眺めているだけでは、どうなっているのかなんて分かりっこない。
 だから、俺は口にする。
「……これは、俺にとって大切な人から託されたものなんだ」
「へえ、どういう人か聞いてもいいかい?」
 興味深そうに男が体を乗り出してくる。
 別にそんな面白い話じゃないよ。そう前置きして、俺は小さく笑った。
「これは――…」
 あのたっぷりとした白いあごひげをたくわえた老人を思い浮かべながら。

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