2020.07.01 執筆
2020.10.04 公開

夢から醒めたら

お互い、もう少し年を取ったら行こうと約束していた場所があった。
 ゲルドの社交場――正しくは酒場。成人を迎えたヴァーイたちのささやかな楽しみの場だ。中でも、北の氷室から持ち出された氷で作られるカクテル『ヴァーイミーツヴォーイ』は絶品で、舌の上にほのかに残る甘味と爽やかな口当たりが心地よく、その評判を聞きつけたハイリア人がわざわざ遠方から足を運ぶほどと言われている。
「この期に及んでノーチェック……」
 そんな小洒落た店内で、今にもハイラルダケを生やしそうなじめじめとした声を出したのは、ゲルドの民族衣装を身に着けたリンクだった。
 衣装はもちろん街に入るためにヴァーイ用。首を振る度に、金の装飾がしゃらしゃらと揺れている。
「まあまあ、おかげでこうして入れたんですから」
 女装のリンクをなだめているのは、色違いのおそろい衣装をまとったゼルダだ。周囲に聞き咎められることを気遣ってか小声だが、彼女の声音にはどこか楽し気な響きが含まれている。そんなゼルダに面白くないと言いたげに、リンクはヴェールの下で口元を尖らせた。
「俺だって、前より少しくらいは男らしくなったと思…い、思って……!」
 がくりと項垂れている。門番の「可愛いヴァーイたちね」が相当に効いているようだ。
 実際ゼルダも、ここ最近リンクの体つきはますます逞しくなったと思ってはいるのだが、如何せんハイリア人とゲルド人とでは発育の良さが段違いだ。出るところは出て、引っ込むところは引っ込むメリハリの利いたムキムキボディの前には、筋肉質といえど細身のリンクが太刀打ちできるはずがなかった。というより、そもそも種族的に骨格が違うのだからしょうがない。根本の問題だ。
 ゼルダはそう思っているのだが、リンクはそうではなかったようだ。特に訝しがられることもなく、素通り同然で門を潜れてしまったことに、成長期を終えたリンクのプライドはいたく傷つけられてしまったらしい。お目当ての酒場に着いても、リンクはご機嫌斜めだった。
「そんな曇り顔じゃヴォーイにもてないよ。さあさ、せっかくうちの酒を飲みに来てくれたんだ。楽しくやろうじゃないかい」
 祠周りをしているうちに知り合ったという店主のフロスは、リンクのことを覚えていた。「ああ、あの時のヴァーイかい」と当時を懐かしみながらも、彼女は成人したというリンクたちのために最高のヴァーイミーツヴォーイを用意すると手を動かしてくれたのだ。
 カウンターの上に並べられた二杯のグラスの中には、まるで宝石のようにきらきらと輝く氷が浮かんでいる。ふわりと漂うのはフルーツの甘い香りだった。灼熱の砂漠では、この冷たい一杯が何よりの贅沢品であることは言うまでもない。
「わあっ……!」
 至高の一杯を前に、ゼルダは瞳を輝かせた。
 お酒。今まで飲んでみたいと思いこそすれ、口にすることは叶わなかったものだ。それがこうして目の前にあって、リンクと一緒に並んでカウンターに座れるだなんて百年前は考えたこともなかった。
 翡翠色の瞳をきらきらとさせているゼルダを前に、釣られるようにしてリンクもまた相好を崩す。これで女装していなかったら完璧なシチュエーションなのにな、という考えは放り投げることにした。結局のところ、ゼルダが喜んでいればリンクはそれでいいのだ。
「それじゃあ」
 ゼルダが目配せをしたのを合図に、めいめいグラスに手を伸ばす。
「いただきます」
 チン、とグラスとグラスが重なり合う音が響いた。
 初めて口にするヴァーイミーツヴォーイはひんやりと冷たく、まるで果実水のように口当たりが良い。それでいてしっかり酒の味は効いていて、その不思議な風味に、ゼルダはうっとりと吐息を吐いた。
「……おいしい」
 一口、二口とついつい口にしてしまう。ゲルドの女たちが夢中になってしまうのも頷ける。これははまっちゃいそうですね。小さくそう零して、ゼルダは隣が静かになっていることに気が付いた。健啖家な彼はこういう時もりもりと飲み食いしているのだが、妙に大人しい。
「えっ、り、リンク!?」
 なんでも美味しく頂いてしまうリンクが、カウンターに頭から突っ伏していた。飲み始めて、開始一分も経っていない。何事かと目を白黒させるゼルダを前に、フロスは「おや」と片眉を上げた。
「どうやら酒が回りやすい性質みたいだねえ」
「ええ……」
 微妙な料理から硬すぎ料理まで美味しく食べてしまうあのリンクが酒に弱いだなんて一体誰が想像できただろう。ゼルダは呆気にとられてリンクを見下ろした。耳の先まで真っ赤になっている。血の巡りが早くなっているのか、時折ひくひくと動いているのが妙に生々しかった。
「なんでも消化できてしまう胃袋だからこそ、アルコールの回りが早いんでしょうか……」
 くぴりとヴァーイミーツヴォーイを飲む。こんなに美味しいのにもったいない。リンクとは対照的に意識をはっきりと保っているゼルダは、この酒が飲み口に反して度数が高いことに気が付いていない。――代々、王家の人間が酒にめっぽう強いということにも。

   * * *

 べろんべろんになってしまったリンクをルージュの館にまで運ぶのは結構な骨だった。ルージュの厚意で借りた一室にゼルダが腰を落ち着けたのは、夜もとっぷりと暮れた頃だ。リンクがヴォーイであることを知っているビューラの手が借りれて本当に良かった。
 リンクにはお酒を飲ませない方が良さそうですね……そうため息を吐いて、ゼルダはベッドの中で眠っている彼を見下ろした。すうすうと寝息を立てるリンクの顔からヴェールを外しておいたおかげで、彼の顔が良く見える。太い眉に、すっきりと伸びた顎。青空みたいに澄み切った瞳は今は閉じられていて、代わりに黄金色の瞼が震えているのが分かる。僅かばかりのランプに映し出される顔は、災厄を倒したあの日の彼よりもずっと大人びているのに、寝顔だけは変わることがない。それが無性に微笑ましくて、ゼルダはリンクの髪を撫でた。
 剛毛な彼の髪はきつく紐で縛られているからか、ごわごわとしていて指通りが良くない。リンクのことだから気にしていないのだろうということは百も承知だったが、きちんとお手入れをしているゼルダとしては、髪をこのままにするのは忍びなかった。伸びあがったゼルダは、眠っているリンクの後頭部に指を差し入れる。
「きゃっ!?」
 不意に腰が引かれる感覚があって、ゼルダは前のめりになって倒れこんだ。鮮やかなターコイズブルーに彩られた胸板の中に閉じ込められて、思わず抗議の声を上げる。
「もうっ、起きているな起きていると言って下さ……」
「…り、ます……」
 ゼルダの声は中途半端なところで途切れることになった。狸寝入りをしているにしては、リンクの様子がおかしいことに気が付いたからだ。
「リンク……?」
 ゼルダの腰に回された腕は、か細く震えていた。まるで幼子が母親に縋りつくかのように、彼の腕にきゅっと力が籠るのが分かる。
「私が、貴方を……命に代えても、お守りします…」
 静寂の中、リンクの掠れた声がはっきりとゼルダに届いた。
 はっとして顔を上げると、彼は苦悩の表情を浮かべていている。その額には玉のような脂汗が滲んでいた。
 リンクの言葉に覚えがないわけでもなかった。
 百年と少し前。忘れもしない、厄災ガノンがハイラルの地に具現した日の出来事だ。
 ハイラルはたった一日で火の海と化した。厄災復活に多くの人々が命からがら逃げ延びようとする中、古代兵器が次々と敵の手に落ち、凶悪な敵兵へと姿を変えていったのだ。城が、城下町が、村が。何もかもが炎の中に包まれてゆく。さらに最悪だったのは、味方であるはずの四神獣でさえも制御不能になり、暴れ出したのだ。
 まるで悪夢としか言いようのない光景だった。父は既に行方知らず。神獣に乗りこんだはずの英傑たちも連絡が付かない。多くの人々が成すすべもなく、生きたまま火に焼かれていった。
 まるで地獄だ。消し炭になった腕から転がり落ちた腕輪を前に、厄災を前に何一つできないこの身を呪った。
 責を果たせぬ無才の姫。まさに揶揄された通りじゃないですか。力を持たないばかりか、自ら復活させた古代の力もことごとく奪われて。民の命を奪って。……何の力もないくせに、せめて付いてくことしかできないと勇者の足ばかり引っ張った。
 やっぱり……私は……。声を震わせて泣き喚くことしかできない無力な娘を前に、降ってきたのは彼の唇だった。
「…………申し訳ございません」
 忘れてください。そう口にした、あの戦慄く唇の感触をゼルダが忘れたことなど一度たりともなかった。
「忘れることなんてできません……」
 彼のことが恋しかった。王から与えられた任務にただ忠実なだけの彼を一方的に想っているだけなのだと。そう、勝手に思い込んでいた。
「貴方からのキスを忘れることなんて……っ」
 苦くて、痛くて、泣きたくなるほど切ない恋慕。ぶつけられた言葉に、震える膝で立ち上がった。泥のような暗闇の中、手と手を握り合って転がるように駆け抜けた夜が、もし今リンクの目の前に広がっているとするならば。
「……リンク、リンクっ!」
「ひ……め、さま……」
「今はもう、ただのゼルダですよ……リンク」
 そう口にして微笑めば、ゼルダを抱きしめていたリンクがふっと目を細めたのが分かった。
「そっか……俺の、ゼルダ」
「厄災は去ったのです。ハイラルには平和が訪れて、少しずつ復興の道を歩み始めています。あなたのおかげです、リンク」
 だから、心配することは何にもないんですよ。囁くようにそう告げて、彼の広い胸に頬を寄せた。ほこほこのお日様みたいな匂いがする。それから、ほんのり彼の汗の匂いも。
「今はただのリンクとゼルダです。こうして一緒にお酒を飲みに行けるようになったんですよ」
「……うん。うん」
 潰れた豆だらけのごつごつした手のひらが、ゆっくりとゼルダの頭を撫でる。その優しい手つきにうっとりと目を細めて、ゼルダは吐息を吐いた。
「だから安心して。……おやすみなさい」
 砂漠の街は夜の帳の中にある。リンクの温もりに包まれて、とろとろとした眠りに誘われながら、ゼルダはふと窓を見上げた。風通しの良い土壁の向こう側で、きらりと星が筋を作りながら落ちていく。
 月のない夜だった。まるで、あの日みたいな。
(……明日は)
 リンクにとっていいことが起こりますように。祈るように胸の内で小さく呟く。互いの温もりを感じながら眠る夜を迎えられること。それは、なんと幸福なことだろう。
 回されたリンクの腕は、もう震えていなかった。

   * * *

 昼は熱く、夜は寒いのが砂漠の常だ。明け方のひんやりとした空気の中、リンクは唐突に目を覚ました。
「……あれ」
 元々寝起きはいい方だという自負がある。ゼルダよりも早く身支度を整え、簡単な朝食を準備する。これがここ暫く、ハテノ村でのリンクのサイクルだった。
 だから目を覚ました時、リンクはヴァーイ用の民族衣装を身に着けていることにまず驚いた。同じくベッドで眠っているゼルダもまた、リンクとお揃いの色違いを身に着けている。はて、一体どういうことだろう。リンクは首を傾げた。
 昨晩はそういう特殊なプレイだっただろうかと考えて、夜の記憶がすっぽりと抜け落ちていることに気が付いた。まさか、また記憶喪失なのだろうか。そこまでぐるぐると考えて、リンクはようやく酒場目当てにゲルドの街にまでやってきたことを思い出した。落ち着いてみれば、ここがルージュの館であることも建物の作りから推測できる。
「ん、リンク……?」
 衣擦れの音がして、ゼルダがゆっくりと体を起こすのが分かる。しゃらん、と金の飾りが揺れる。ゲルド衣装のエキゾチック感も相まってか、朝日の陰影に描かれたゼルダはどきりとするような気だるげさがあった。思わず喉が鳴るのが分かる。
「やっぱり昨日やったかな……」
 ゼルダを見ているとそんな気がする。だって、えっちだし。それにしてもよく育ったな、と改めて思う。この街が男禁制でなかったら、絶対こんな格好許可できなかった。
「良からぬことを考えていますね」
 何かを察したゼルダが、呆れたようにジト目になって見上げてくる。
「いや、昨日何があったのかな~って……」
「あら、覚えてないんですか?」
「お恥ずかしながら……」
 へへ、と苦し紛れに笑ってみせれば、ゼルダがふうん、と唇に手を当てたのが分かった。……これは、あれだ。新しい調査対象を見つけた時の顔に似ている。
「昨日のリンク、あんなに可愛かったのに……覚えていないんですか」
「はへ!? えっ!!?」
 思わず変な声が出た。
「リンクったら、あんなにぎゅってしがみ付いてきて……」
「えっ、ちょっと待って、俺そんなことしたの!? 嘘ぉ!」
「あら、私が嘘つきだと思います?」
「思わないから困ってるんですよ!!」
 力の限り肯定をして、リンクは頭を抱えた。思わず昔の口調に戻ってしまっていることにさえ気が付いていない。酒場に行った後の記憶が綺麗さっぱり途切れているのが大問題だ。ひとしきりうんうんと唸り声を上げて、観念したようにリンクは顔を上げた。
「昨日俺、何したか教えてくれない……?」
「秘密です」
「ぬおぉ……」
 万事休すである。再び記憶で苦しめられることになるとは思ってもみなかった。
「俺、酒は飲まないようにする……」
「そうですね。そうした方がいいと思います」
 神妙な顔つきになったリンクを前に、ゼルダもまた頷いて答える。
「飲むなら二人きりの時に、ですよ」
 そうしてとびきり可愛い顔で告げられた言葉に、リンクはまた奇妙な声を上げながら頭を抱える羽目になったのだった。

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