2022.02.27 執筆
2023.02.02 公開

お風呂の話

薄暗く、がらんどうな空間にはひんやりとした空気が漂っていた。
 目の前には扉が二つ。聞き覚えのありすぎる音と共に『お湯の試練』という青い文字が浮かび上がる。
 リンクは首を捻った。
(お湯の試練ってなんだ?)
 疑問に答える声はない。代わりと言わんばかりに、扉の前に再び青文字が浮かび上がるのが分かった。片方には『別れる』、もう片方には『共に』と書かれている。
「どちらかの扉を選べ……ということなのかもしれませんね」
 どうやらゼルダには例の青文字は見えていないらしい。他にヒントになるものはないかと扉の周囲を見渡すものの、収穫らしい収穫は見つからなかったようだ。
「ええと……どうやら今回の試練はお湯? に関する? 試練だそうです」
 ひとまず事情を説明しよう。
 リンクが口にした言葉に、ゼルダはますます疑問符を浮かべるばかりだった。
「お湯の試練? 一体お湯がどう勇者の試練と結びつくのでしょうか……?」
 生憎、リンクもよく分かっていない。こんな試練は初めてだ。ただ、扉の前に文字が書かれているということは、相応に意味があるはずだ。
 ううん、と唸るリンクを前に、ゼルダは顔を上げた。
「とにかく扉を開けてみましょう。先に進まないことには分かりません」
 もし違っていたとしても、またやり直せるはずですから。
 リンクが静止の声を上げるよりも早く、ゼルダは『別れる』と書かれた扉を開けた。

※※※

 カポーン

 白く煙る広い空間に響き渡る桶の音。壁には双子山の絵が大胆に描かれており、その手前には並々とお湯を湛えた湯船が鎮座している。
 目の前に広がる光景に二人は呆気に取られて立ち尽くしていたが、我に返るのはゼルダの方が早かった。
「お風呂です! リンク!!」
 こんなに立派な湯舟は、ハイラル城にあった湯殿以来ではないだろうか。国が滅びてゆうに百年の時が過ぎた今となっては、それも過去の記憶でしかない。
「すごい!! 素敵!! こんな祠もあるのですね!」
 はしゃぐゼルダとは対照的に、リンクはじっと足元に視線を落とした。カゴが二つとタオルが二枚。まさか、お湯の試練というのはお風呂に入れとでも言うのだろうか。
 血の気が下がることを自覚しながら、リンクはなんとか言葉を絞り出すことに成功した。
「……ゼルダ様……今まで祠をクリアするには、その場に揃う条件全てを使う必要がありました。つまり……これは……」
「私たちがそれぞれお風呂に入ればいいってことでしょうか」
 ゼルダが湯舟を指さすと、湯気の向こうに薄っすらと柵で間仕切りがされてあるのが見て取れた。
「『別れる』ってそういうこと……!?」
「え? なんですか、リンク」
「あっ、いや、問題ありません。気にしないでください!」
 つまり、あの扉で『共に』を選んでいたら、大変なことになっていたという事だ。あの場においてゼルダが『別れる』を選んでくれて本当に良かった。
「ふふ、試練って言うよりご褒美みたいですね」
 たおやかに微笑むゼルダを前に、リンクはほっと胸を撫でおろした。
「祠の中にはたまに難しい場所にあったりするものもあって、そういうのはご褒美的な意味で祝福してくれるんです。もしかしたらこの祠はそういう祠なのかもしれませんね」
 『共に』入るのではなく『別れて』風呂に入るのであれば、何も問題はない筈だ。良かった、良かった。少なくともリンクはこの時、そう思っていたのだ。
「私たち以外はいませんから、貸し切りですね。……リンクのこと、信頼していますから」
 それってどういう信頼なんですか。
 湯殿の脇にあった、こちらも間仕切りで分けられた簡易的な脱衣所で服を脱ぎながら、リンクは悶々と考え込んでいた。
 まだ手だって握ったことがないゼルダと、仕切りがあるとはいえ同じ湯殿でお風呂に入るというのだ。あの時は『共に』でなかった安心感もあってすっかり油断しきっていたものの、考えてみれば全然良くない。さっと身体を洗って、ささっと浸かってこよう。
 リンクは手早く服を取り払うと、身を清め、そのまま間仕切りで分けられた湯舟の中に飛び込んだ。まもなく、脱衣所から足音が聞こえてきて、ゼルダが湯殿にやって来る。
 ざあっ、と水が流れる音が聞こえてきた。それから、湯殿の中に響き渡る桶の音。
「隣で……この音、お湯に打たれてるのかな。それとも体を洗って……?」
 ぼんやりと考えてみる。
「きっと温まって、ほんのり色付いて、背中から流れて……」
 髪は長くて邪魔になるからまとめてあって、もしかしたら白いうなじが見えているのかもしれない。色付く肌の上からぽたぽたと雫が伝い落ちている。想像を掻き立てるような音が間仕切りの向こう側から聞こえてきて、リンクは思わず口元を手で覆った。
 まずい、と思ったのも束の間のこと。視線を下ろして、リンクは頭を抱えた。
「うっわ……どうしよう」
 どうしようも何も、こんなにも生々しい音を近くで聞いて、反応しない訳がなかった。
 誰だ。『共に』じゃないから大丈夫なんて思ったのは。全然大丈夫じゃない。
 それどころか視覚が遮断されている分、音でより想像が掻き立てられて、どんどん体が火照ってくるのが分かる。
(出よう、今直ぐ出よう)
 このままじゃのぼせてしまう。そんなリンクの胸中など知りもしない間仕切りの向こうの彼女は、嬉しそうな声を上げた。
「リンク、いますか?」
「あ、は、はい。います……」
「ふふっ、こんな素敵な試練があるなんて知りませんでした。はあ……とってもいいお湯……」
 出るタイミングを逃してしまった。ちゃぷり、とお湯が波打つ音がして、ゼルダが湯舟の中に浸かったことが分かる。
「気持ちいいですね……」
「そ、そうですね……」
 声が裏返っていることを自覚しながら、リンクは頭を抱えた。
 やっぱり、早くここから出よう。そうでないと……色々危険だ。
「あ、あの……」
「ねえ、リンク」
 間の悪いリンクの声は、ゼルダの呼びかけに被ってしまった。どうぞどうぞ、とお互いに譲り合って、結局ゼルダに話を続けて貰う。
「貴方と一緒に祠の中に入れたこと、感謝しているんです。私は結局一度も入ることは出来ませんでしたから……」
 ゼルダの声は少し寂しそうに聞こえた。
 百年前、それこそ何度も何度も祠を開くことは出来ないかと手を尽くしてきたのだ。それでも、彼女は一度たりとも入ることは出来なかった。
「出来なかった事が出来るようになることは、何だか嬉しいものですね」
 ぱしゃり、と水を掻く音が聞こえる。
 いけない。ここは真面目なところだ。けして邪な考えを持ってなどいけない。
 そうは思いつつも、リンクとて百を少し超えたばかりの健全な十八歳男子だ。水音から生々しいゼルダの肢体を想像してしまい、またもや耳先まで真っ赤になってしまう。
 模範たれ冷静になれと自分に言い聞かせるものの、好きな子とお風呂に入った時の対処法など、習ったこともないのだ。
 ああ、どうして上官はそんな大事なことを教えてくださらなかったのだろう。
「そういう時間を貴方と共に過ごせる事が、私……」
 ぐわん、と世界がひしゃげるのが分かった。
 あ、これ、駄目なやつ。
 頭の片隅でそんなことを考える。直後、大きな水しぶきを上げてリンクは湯舟の中にひっくり返った。

※※※

「いくらお風呂が気持ち良かったからって、リンクは無茶しすぎですよ」
「すみません……」
 返す言葉もない。
 しょんもりと小さく丸くなっている勇者の姿を前に、ゼルダは息を吐くと顔を上げた。
「とにかく、のぼせそうなら先に言ってください。倒れるほど浸かっては本末転倒です」
 ごもっともです。口の中で呟いて、リンクは項垂れた。
 守るべき主君を前に、騎士である自分が先に倒れるようなことはあってはならない。そんなリンクの反省を感じ取ったのだろう、ゼルダは咳払いをすると「これでお話は終わりです」と短く締めくくった。
 結論から言えば、あの祠には導師はいなかった。一体なんのために作られたのか、未だによく分かっていない。
「ところで、ゼルダ様。俺……その、服を自分できた記憶がないのですが」
 恐る恐る言葉を口にすると、つい、とゼルダの視線が横を向いた。目線を合わせようともしない。
 嫌な予感がして、リンクは問いかけた。
「ゼルダ様」
「…………何ですか?」
 変な間がある。
 嫌だ。認めたくない。だけど、今ここで聞かなければ、この先聞くことが出来ないような気がして、リンクは恐る恐る唇を開いた。
「見ましたか」
 みるみる内に彼女の白い頬に赤みが差していく。それが、何より雄弁な答えだった。
「あの……粗相を……」
「リンクは立派でしたよ!」
「は? ……えっ?」
「あっ、別に他の殿方と比較したとかそういうことではなくてっ」
「えっ、えっ」
「わ、私何を言ってるんでしょうね……!?」
 両頬を抑えて真っ赤になる彼女は、焦りからなのか、発する言葉がますます際どくなっていく。
「あんな風になってるのを見るのは初めてで、私もびっくりしちゃって……」
「わーっ、わーっ!?」
 声を上げて立ち上がる。
 それ以上は聞いてはならないし、考えてもならないし、ましてやじっともしていられない。
 導師もいないのにあんな紛らわしい祠なんて設置するな。古代遺物に未だかつてない怒りを覚えながら、リンクは必死で声を張り上げたのだった。

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